大社高校野球部アーカイブ

悲運の第1回大会

大正4年、朝日新聞社主催による全国中等野球大会は、この年から始められた。全国を10地区に分けて地区ごとに予選を行い、その代表が大阪府豊中球場で全国一を争った。

・部 長 後藤蔵四郎 ・コーチ 飯田五郎作(早稲田) ・主 将 千家剛麿 ・選手監督 三明永無(5年)
・記録係 森山善太郎 ・投 手 千家剛麿(5年) ・捕 手 奈良井明義(5年)
・一塁手 福田稲夫(5年) ・二塁手 秦 昇一 ・三塁手  遠藤 寿(5年)
・遊撃手 山根慎一(5年) ・左翼手 山根 斎  ・中堅手 児玉直市 ・左翼手 猿木真吾
・北島国一郎  ・尾原勝吉

 第1回大会の山陰地区予選は、前々年の杵築中と米子中の試合での不祥事の関係で行うことが出来なくなっていたので、島根県・鳥取県でそれぞれ代表校を選出して決定戦を大阪府豊中球場で行うことになっていた。上記の布陣で臨んだ島根県大会の決戦は杵築中と松江中となった。8月8日午後3時より杵築中グランドで開催された。

杵築中 (三)遠藤 (遊)山根 (投)千家 (捕)奈良井 (一)福田 (二)秦 (中)児玉  (右)猿木  (左)山根  39打数 4安打 10盗塁 1犠打 9得点
松江中 (投)森脇 (左)森山 (三)平井 (一)藤岡 (捕)井川 (二)篠原 (右)小笠原 (遊)鈴木 (中)西川 33打数 3安打 7盗塁 0犠打 3得点


松江中初回に1点先取、3回に杵築中2点を取り次いで3点を加え、結局、9対3で勝利し鳥取県勝者との決定戦に臨むこととなった。
 山陰代表決定戦は、8月15日午後2時半から 豊中球場で行われた。この決定戦は朝日新聞の努力によって実現したという。

先発メンバー
鳥取中 (三)上田 (遊)竹岡 (三)平井 (一)藤岡 (捕)井川 (二)篠原 (右)小笠原 (遊)鈴木 (中)西川
杵築中 (三)遠藤 (遊)山根 (投)千家 (捕)奈良井 (一)福田 (二)秦 (中)児玉  (右)猿木  (左)山根

試合結果
鳥取中 001 000 103 = 5
杵築中 100 001 000 = 2

試合経過
 初回、杵築中の攻撃、1死から山根慎一が2盗3盗し千家の二塁ゴロで先制する。鳥取中3回の攻撃、無死満塁となるも2者打ち取られたが四球押し出しにて同点となる。6回杵築中の攻撃、山根三塁に快打しまたも2盗し3盗の時三塁手捕逸し生還。7回鳥取中追いつき、9回猛襲し3点を追加。3対5にて山陰の優勝校は鳥取中が手にする。試合後の挨拶で千家主将の言葉が、翌日の新聞紙に美談として掲載された。「戦い終われば同じ山陰同志、豊中での健闘を祈る」と激励した。また大会後の朝日新聞社第1回全国野球大会記録に、同じ三つの美談として所載されている。一つは兵庫県大会の優勝戦に負けた関西学院の広瀬主将は、兵庫県のために奮闘してくれ給えと激励。そして全国大会決勝で京都二中に負けた秋田中の選手が「京都二中万歳を連呼した。何たる悲壮な光景であろうと記している。この三つの美談の中に、我が杵築中が入っていることも誇れることではないだろうか。

 余談、鳥取中との試合では、ほとんどの選手が下痢に悩まされていたという。ほとんどの選手が初めて上阪し、初めて見るイチゴ・レモンの氷水に驚いたが暑い盛でもあり食べ過ぎてしまった。そのうえ、カビの生えた餅を当日の朝食べさせられたのが更に下痢を酷くさせた。これは、端午の節句につくった餅を食べると武運長久という杵築町のいわれによる。6回の守備の時、中堅の児玉選手の姿が見えない、一生懸命探していると、「ここだ。ここだ。」と便所の中から声がしたというエピソードが残っている。
 杵築中に勝ち全国大会に出場した鳥取中は、第1試合の後攻めとなり第1回全国大会の第一球を投じる栄誉を得ている。そして、相手の広島中に勝利し大会勝利第1号という高校野球大会球史に残る1勝を得ている。
 鳥取西校(旧鳥取中)と大社校(旧杵築中)は平成20年5月6日(火)鳥取県岩美町営球場で親善野球試合を行った。この年、全国高校野球大会は豊中球場で第1回大会が開催されてから90回目の記念開催となっている。本日の交流試合及び親善試合は、鳥取中の鹿田一郎投手が大会第一球から90回目の節目の年を迎える。この夏の甲子園大会を前に、当時の鳥取中学対杵築中学の知られざる歴史の1ページを振り返りながら、両校野球部が世代を超えて交流を深めることを願い、今後の躍進を期するものです、とあいさつにある。



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