大社高校野球部アーカイブ

私のキャプテン時代

 
昭和6年度主将 加本一久

 前年のチームの主力で、しかも名投手北井、山口、田中、来間等が全部卒業した後は、極めて弱体チームになってしまい、もう学校側も、先輩もファンも諦めて見向きもされない有様だった。従って後援会の寄付金も集まらければ、コーチも頼めない状況で、細々と部費でまかない、練習は私がノックバットをとってフィルディングをする始末だった。時々土曜日は春日先輩が来られて練習をみていただいた。そうしたチームだから他流試合をすれば大抵惨敗するのが常だった。
 それでも大会前はお定まりの合宿練習ということになった。ところがどうもチームワークがうまくない。弱いことで諦めと嫌気がさしたのかサポタージュが始まった。殊に5年では選手私が一人、マネージャーが原氏と二人きり対し4年、3年の選手が大部分を占めていておさえがきかない。練習のスケジュールもこの連中に反対されては運びがつかない。それがとうとう爆発して大喧嘩になった。確か大会2週間位前だったと思うが、私は主将として従わない選手は除名するといい、みんなもそれならやめるという。どうにもならない破目に決裂してしまった。私はレギュラーを除名しても補欠でチームを再編して、どんなに弱くても母校の名誉にかけて大会出場をする覚悟だった。お蔭で練習はストップとなりテンヤワンヤの大騒ぎをしているのを先生や先輩が心配され、当時の竹野屋旅館の主人や竹内さんが仲に入られ、スッタモンダの挙句、仲直りをさせられ出直すことになった。この騒動は2〜3日続いたと思うが、弱いチームがいよいよ情けない有様で、もう大会に出場して勝とうとする意欲よりも何とかして恥ずかしくない試合をすることのみが精一杯だった。
 ところが意外なことに「雨降って地固まる」というのが、若い世代の純真なスポーツマンシップのよさというか、喧嘩はしたが、いざ固まってやろうという気になると不思議なほどのチームワークが出来上がったものである。「どうせ敗けるならやれるだけやろうぜ」という心意気がみんなに相通ずる気魄となってきて、それから10日間はまるで打って変わったような練習になった。一同火の玉となって伝統と名誉のために戦おうということになった。
 当時私等のチームがどの位弱かったかを示す証拠にこういうのがある。朝日新聞社が大会前に「山陰大会では何校が優勝するか」という懸賞募集をしていたが、本命の松江中学やら名門鳥取一中は数千から1万近い票が集まっていたのに反し、大社はわずか13票でビリから2番目だったと思う。それも私の友人等が可愛相だから入れといてやろうという友情から集まったもので、何も優勝を期待したものではなかった。
 それが大番狂わせで優勝したのだからたまらない。さしづめ競馬なら大穴というところだったろう。友人等も全部入賞して思わぬ賞品にありついて大喜びだった。

山陰大会での出来ごと


 大会の抽選で、緒戦で山陰の名門鳥取一中と当たった。いわば宿敵であり、私にとっても2年連続して苦杯をなめさせられた怨敵である。なにしろ実力ではダンチの有様ではとてもまともに戦えない。
 そこで私はみんなを集めて決意を新たにし当たって砕ける覚悟で刃向かうことを誓い合った。私等の約束は打てなければデッドボール、塁へ出たら盗塁してぶっつかる。守備は身体でとめる。というようなもので反則も覚悟の意気込みだった。そして敵がい心の固まりで戦った。ところがそれが功を奏したのか一進一退の経過でスコアの示す通り遂に逆転勝ちをした。
 それからがさあ大変、まさかファンや、学校側も鳥取一中に勝つとは夢想だにしなかったことが実現したのだから耳目を疑ったことだろう。早速にわか仕立てののぼりやら太鼓を持って続々とかけつける。激励に先生や先輩がやってくるわ。今までとは打って変わった雰囲気になったわけだ。こうなるとえらいもんで選手の意気込みも変わってくる。前年のチーム力と話にならない弱体チームが怨敵で名門鳥取一中を敗ったというプライドめいたもの、ファイトさえあればやれるという自信めいたものが急にもりもり湧いてきて何だか付焼刃のチーム力が出来上がってきたのである。それから調子に乗って、さらに強敵島根商業を第2戦で敗り、優勝戦出場となった。
 この間に大変な事態が発生したのだ。
 それは準優勝戦で松江中学対倉吉中学の試合のことだった。当時の松江中学は最も有力な優勝候補で力の入れようは大したものだった。そのうえ会場が松江高校グランドで地の理も得ており万余のファンや応援団が力の限り声援していた。その試合半ばで問題が起きた。倉中の攻撃の時、3塁ランナーが外飛でホームを衝いた際離塁が早過ぎたという抗議が松中から出た。勿論主審はホームインを宣告したがやや塁審があいまいだった。
 トラブルは結局判定通りになって一応納得したかに見えて試合は続行されたが、それが原因でもなかったが結局僅差で松中が敗れたのだ。さあそれからファンが承知をしない。試合は先の誤審が解決していないから無効だと文句をつけ出した。勿論主催者側はこれに応じないため大騒ぎになり、松中側はあくまで再試合を要求し、しまいにはヅスを手にして審判団を脅迫する不祥事になった。審判団は身の危険を感じて米子辺りに姿をくらました。そのため大会は中断され、再開困難の様相を呈してきた。そこで朝日新聞はこの事態解決策として山陰大会の優勝戦のみは甲子園で全国大会の前に結構する案を呈示してきた。それに対して私共は絶対反対を表明し、地方大会はあくまで地方でケリをつけて全国大会に臨みたいと強調した。いわば私等としては、漁夫の利といえる立場で、倉吉と松江が喧嘩をしている場が松江であるため、倉吉との試合になれば強力な応援ということになる。そんな打算は別として大騒動の挙句、松江で予定通りにして優勝戦を決行することになった。確か2日位おいて開催された。それが前代未聞の武装野球となった。警官がスタンドの上下にずらりと一列横隊になって観衆に向いて並び、選手のスタンドはダイヤモンドの近くに前に出す警戒振りだった。空きびんや果物が飛んで来ない用心だが、何だか殺風景なもんだった。いざ試合開始となると喧々ごうごうたる野次、ばとうが倉中側に浴びせつけられ誠に凄惨たるものとなった。
 倉中のナインは全く固くなり、応援団も手も足も出せない有様で、これが純真たる学生野球かと思われるほど、こだわった、興奮と殺ばつたる試合であった。
 このことは後に中等学校野球のあり方に対して非常に問題となり、制度改革のきっかけになり、野球史上汚点を残したものであった。この騒ぎで試合は逆転し、全く拾いものをしたように私等は幸運の勝利を得た。
 およそスポーツの勝利とは、それ相当の実力とチャンスに伴う運とに恵まれてこそ訪れるものだろうが、私達の場合は実力なし、ただファイトの固まりと思いがけないトラブルとラッキーチャンスでいわば棚からぼた餅式の優勝であった。
 私は何だか優勝してからも唖然たる気持ちで優勝をしみじみと身に感ずるにはかなりの時間がかかったように思う。
 先輩、ファン、学生等の狂喜乱舞、感激振りはすさまじいもので、殊に前年に卒業したナイン達はうれしいやら口惜しいやらで何かわめきながら泣いていたのも無理からぬことだった。
 この動乱の大会終了後、私等は松江市内をオープンカーでパレードをし、それから一畑電鉄の好意による特別仕立3両連結の電車で大社に引き上げた。駅頭にはおびただしい歓迎の人だかりで街には高張り提灯が出され大太鼓をかり出して大変な出迎えとなった。私共は駅のバルコニーに上げられて、そこから優勝の報告とお礼を述べた。
 それから提灯行列やら祝賀大会が続き、風船玉のようなフアフアした気持ちだったが、流石にうれしくうれしくて仕様のない顔つきだった。

あこがれの甲子園へ


 やっと興奮が冷め、お祭り騒ぎが納まって、甲子園行の準備にかかった。いろいろと練習のスケジュールの中に米鉄との練習試合が計画された。ちょうど出発一週間位前だったと思う。この試合で捕手の私が大けがをしてしまった。それは私等が守備で一塁ランナーがヒットエンドランをやろうとして打者がチップしたボールが私の右人差し指にもろにぶつかった。指間は裂けるし指骨は折れたようで早速病院に運ばれ手当をしたが、当分出場出来ない大けがだった。
 右手を吊ったまま、治療に専念せざるを得なくなった。それでも捕手の代わりが十分でなく、何とかして出場しなけりゃならんので随分あさって加療した積もりだった。甲子園に着いても先輩の勝部医院にお世話になって治療を続けたが、勿論この間練習は全然出来なかった。
 晴れの檜舞台、しかも夢に見た甲子園の土を踏むのにこのざまは誠に情けなかったが、とにかく出場することを決めた。
 甲子園での抽せんの結果は大社中学が入場式のトップとなり、私は思いがけなく選手代表に選ばれた。そこで晴れの入場式の時は私が宣誓を行う栄光を担うことになった。
 朝日新聞社より示された宣誓文は確か「第17回全国中等学校野球大会の開催に際し、われ等参加選手一同は大会の規則を守り、あくまで正々堂々戦うことを宣誓します。参加選手代表、大社中学主将、加本一久」と確かこんな文句だったと思う。
 マイクの前で固くなりながらも10万の観衆を前に、また全国のファンの耳に宣誓することは全くのラッキーボーイだったと思う。
 試合の方は第1戦不戦勝、第2戦京城商業と追いつ追われつで辛勝、第3戦で小倉工業に大敗を喫した。全く手のつけられない惨敗ぶりだった。今までラッキーの連続だったのが遂に馬脚を現し、恥さらしの実力露呈という始末となった。ただ弱いだけなら未だしも私の指の負傷をおしての出場はかなり守備戦力に影響したことは事実だった。敵が塁に出れば3塁まではほとんどフリーだった。飯山投手も棒球となって散々打ち込まれもすればエラーも出る始末で一挙に粉砕された形だった。やはり身につけたハードトレーニングによる実力とファイト、それに加えてラッキーチャンスがあってこそ勝利をもたらすものであって、ただしゃむにファイトだけで何時までもつなげるものではなかった。大会前のゴタゴタを起こしたころと余り時間も腕もたっていないはずだから、すっかりもとのもくあみに帰ってしまったわけである。
 当時のナインもその後戦死や病死をしてほとんど生存してる方が少ない位である。
 昔日の数々の想いで話をするにも全く機会もないままにここ30余年を過ごしてきた。
 私は懐かしいそのころのことを忘却から引っ張り出してくれた安食氏等のこの企てに感謝するとともに物故した諸兄の霊に対して謹んで冥福を祈りつつこの一片を捧げたい。
1964年(S39)3月29日





Kinki Inasakai