第20期卒業生 新 田 秀 幸 昭和42年、夏、全国高等学校野球選手権大会の島根県東部地区予選において、安来高校よ対戦し2対1で敗れ意気消沈した気持ちをいやすため、後輩の出身地隠岐の島への旅に出た。 高校生活においての野球はすべて終わったと思っていたが、吉報が舞い込んだのはこの旅先であった。 韓国遠征のメンバーに選ばれたのである。島根県の選抜チームが韓国に派遣されることは知っていたが、大社高校は予選一回戦で敗れ、又、私自身も春季大会以後捕手から、投手、外野手に転向していたため、まさかメンバーに、しかも捕手として選抜されようとは信じられない気持ちであったが翌朝の新聞を見て現実のものとなった。大社高校からは投手の内田君と共にえらばれたのである。 訪韓前、韓国チーム(ソウル選抜軍)が来日し、全国を転戦しており、島根県にも訪れ8月6日西部地区選抜軍、8月7日東武地区選抜軍と対戦し西部が勝ち一勝一敗の成績であった。 親善試合も終わり、我々選抜チームは近藤監督(邇摩高)の下、大田市民球場で選手16名が4日間の強化合宿をし戦力、チームワークの強化を図り、8月17日県庁にて田部県知事の激励を受け、18日小倉港よりアリラン丸に乗船しめざす韓国に向け出発したのである。 翌朝、釜山港に入港。選手の中には船酔いで疲れ切った者もおり、又、上陸後思うように食事も取れず、午後からの釜山球場で行われる遠征初戦を迎えたのである。 <以後戦績を紹介すると> 第1戦 対 釜山選抜(釜山球場) 0 対 1 敗戦 第2戦 対 慶北高校(大邱球場) 7 対 4 勝利 第3戦 対 大田高校 全州商高選抜 9 対 2 勝利 第4戦 対 仁川選抜(仁川運動場) 15 対 1 勝利 第5戦 対 善隣商工(ソウル球場) 0 対 0 引分け 第6戦 対 ソウル選抜(ソウル球場) 4 対 0 勝利 第7戦 対 培文高校(ソウル球場) 1 対 0 勝利 第8戦 対 中央高校(ソウル球場) 4 対 1 勝利 第9戦 対 ソウル選抜(ソウル球場) 9 対 6 勝利 初戦に敗れその夜久佐団長より「旅の疲れ、船酔い、食事等による敗戦の言い訳はするな」と活を入れられ、我々選手は日本高校野球の代表チームを自覚し食事にも挑戦し、明日からの試合を力の限り戦うことを誓った。その結果、9勝1敗1引分けの戦績を残し、現在までの高野連の派遣する全日本チーム等訪韓し親善試合を行っているが、この戦績を上回ったチームはないと聞いている。 私も9戦の内7戦にマスクをかぶり、内田君とのバッテリーはもとより島根県の高校野球を代表する岡田(邇摩高)君、菅田(附農林)君という本格派投手とバッテリーが組めこの上もない女房役を務める事が出来た。内田君は春以降調子を悪くしていたが韓国に来て素晴らしいピッチングを展開し6試合に活躍した。 全体的に韓国の野球は攻守ともに細かな連携プレー、バント戦法等あまりなく我々の野球に比べ粗削りと見受けられた。そして韓国には下手投げの投手は珍しく、これに圧倒されたのも勝負の差を大きくした一因である。球場は各地の5球場がつかわれた。どの球場も広く整備され、施設も立派なものであり島根県の比ではなかった。しかも観衆はどの球場も満員となり熱狂的な歓迎を受け大観衆の前でプレー出来たことは忘れられないものとなっている。 休日には、韓国の名所旧跡を見る事が出来た。慶州の仏国寺・殿光寺博物館・王陵を見学し、また、首都ソウルでは宮殿、・南大門・国立博物館・観光地ウォーカーヒル・大統領官邸等を見学し韓国の歴史・文化に直接触れ学ぶことが出来た。 9月5日、7勝1敗1引分けの戦績を胸に日韓親善の使命を十分に果たし帰国した。 私は甲子園で野球することは出来なかったが島根県の最強メンバーで、韓国を訪れ素晴らしい球場で大観衆の前で9試合戦ったことは甲子園に匹敵するものだと確信している。 韓国遠征という素晴らしい体験を得た事は高校野球生活において一生忘れることが出来ない思い出となっている。 これも大社高校野球部の先輩が長い間築きあげられた伝統、そして厳しく鍛えられた指導のたまものだと感謝している。 |
Kinki Inasakai