野球部 部長 北 井 睦 郎 大社22年ぶり優勝 益田東を破り7回目の快挙という大きな見出しが地方版トップを飾った。 「勝ったぞ! 大社の選手たちが三塁側ベンチから飛び出した。真っ黒に日焼けしたどの顔も喜びと興奮でぐしゃぐしゃだ。第67回全国高校野球選手権島根大会の決勝は28日、県立浜山球場で行われ、大社が去年の覇者益田東を下して、38年の第45回大会以来22年ぶり、7回目の甲子園出場を決めた。」 とその模様を報じていた。私にも夢のような出来事に思われた。しかし、心の片隅には、予期していたことが実現したという思いもあった。 私は昭和54年母校大社高校に赴任し、翌55年野球部顧問の一員に任じられた。私にとって大社高校の野球部は、戦後いち早く復活した旧制の中等学校野球部からの憧憬の的であった。私の想いは遠い少年の日に回帰し、眼前の選手の姿が往時の選手像と二重写しになった。しかし、回想はやがて現実の中に溶け込んでいった。 55年は、今岡部長、川上滝郎監督、原和夫コーチというスタッフであった。翌56年川上監督がユニホームを脱がれた。その結果、原部長、今岡監督そして新しい安食昭男コーチというスタッフが誕生した。だが、今岡監督には高校での野球選手の経験がなかった。ために巷間素人監督と取り沙汰された。新監督の努力が始まった。手弁当での野球行脚ー全国名門校を歴訪しての監督学の修行、参考書による理論の研究等々日夜を分かたぬ努力が続けられた。しかし、今岡野球の真髄は人間教育にあった。選手の人格陶冶が、絶えず野球の技術練磨に先行した。 ところで、この年、夏の大会を前に私は予期もしないことが起こった。原部長から、自分はアメリカに行くので、夏の大会中野球部長の職務を代行するようにと依頼された。行きがかり上承諾せざるを得なかった。この年の夏の大会は浜山球場が主会場に決まっており、出雲地区の学校が当番校となっていた。そのため大会が近づくにつれ、その準備と、本校の練習の世話とで大童であった。大会が始まると、本部の仕事も部長の仕事もみな経験のないことで緊張の日々が続いた。この経験が後に役立つとはこの時点では夢想だにしなかった。 今岡野球は、56年秋の大会からその成果を表し始めた。森井・須藤のバッテリーを擁した大社は、56年秋の中国大会出場。そしてそれは、57年夏の大会での準優勝。同年秋の中国大会出場。そしてそれは、翌58年の選抜出場へと繋がった。しかも選抜ではベスト8入りをし、その真価を広く世に問うところとなった。余勢を駆って春の中国大会にも出場した。そしてこの年の夏の大会も下馬評通り順調に決勝戦まで進出したが、決勝戦で大田に惜敗し春夏連続出場の夢は消え去った。この時期、正に大社高校野球部の黄金期であった。 昭和60年、原部長が大田高校へ転出された。学校首脳部と監督は後任の人選に苦慮した。種々手を尽した挙句、私に部長就任の要請があった。私は逡巡した。しかし、周囲の情勢はもはや私の辞退を許さなかった。これと期を同じくして、唐島一将氏がコーチとして招聘された。 今岡監督を中心にしたスタッフも決まり、昭和60年のシーズンの幕が切って落とされた。 雨の降る日も風の日も花も紅葉もよそに見て、という応援歌一節を地で行くような生活が始まった。正直言って始めは苦しかった。しかし、それにも慣れてきた。恒例の広島商業との練習試合が終わる頃になると、夏の大会に備えての練習は一段と厳しさを増してきた。 夏の大会が近づいた。主会場浜山球場。副会場平田球場と決まっている。例によって当番校は出雲地区の学校である。 7月10日、出雲市商工会館で組み合わせ抽選会が開かれた。板垣主将と出かけた。初戦の相手は浜田に決した。会場は平田球場である。抽選が終わると、好カードの一つとして板垣主将は報道陣に取り囲まれた。 対浜田戦の朝を迎えた。球場へ向かうバスに乗り込もうとした時、平田が大田を破ったとラジオが報じた。車中は沸いた。「平田に負けないよう頑張ろう。」と口々に言う。対浜田戦の勝因の一つはここにあった。強敵浜田を破った大社は波に乗った。浜山球場へ移り、江津工、松江商を連破。連投が懸念される安藤の左腕もいよいよ冴え、準決勝で浜田商を下し、益田東決勝戦に臨んだ。選手に気負いはなかった。決勝戦は江角の本塁打で決まった。試合終了。後は興奮、興奮、興奮の堆である。私は漠然と次に来るあわただしさを予感していた。一しきり続いた興奮が収まると予感していたものが私を襲った。試合直後に新聞社から渡された甲子園出場に関する膨大な資料の処理とその対応が急がれる。その、間にあって報道陣の取材が続く。甲子園へ出発するまで連日多くの行事が続いた。そんな時、あちらこちらから出掛けて頂いた労いの言葉がありがたかった。 8月3日、大社駅での盛大な見送りを受け、勇躍甲子園へ出発。 8月4日、甲子園球場練習の日である。バスを甲子園へ乗りつけ、選手入り口から入り通路を抜けてグランドへ出た。私も選手と一緒に生まれて初めて甲子園の土を踏んだ。運動靴の底から何かが体の中を通り抜けて行くような気がした。しばらく茫然とした。そして、人間のめぐり合わせの不思議さをしみじみと感じた。ややあっていわゆる擂り鉢の底いる自分を見出し、改めてスタンドを見回した。やはり甲子園は大きい。選手を見た。不幸にしてベンチ入りできなかった選手も、甲子園の僅か30分に、己の野球の総てを燃焼し尽すがごとく、懸命に嬉々として走り、動き回っている。彼らも恐らく生涯この感激を忘れることはないだろう。よかった。一期一会という言葉が脳裏をよぎった。 私の甲子園出場は、僥倖というべきかも知れぬ。−もちろん監督や選手にとって僥倖という表現は不適当であるがーでも、私のささやかな人生の中にこのような輝かしい一瞬を与えて頂いたことに感謝する。母校野球部の益々の隆昌を祈りたい。 |
Kinki Inasakai