故 春日 行雄 先輩(中37期 昭和13年卒)


写真(山陰中央新報社新聞から)

  島根県立大社高校は100年を超える歴史の中で、多くの著名な卒業生を輩出しており、卒業生の会である「いなさ会」の活動も盛んで、現在、約2万7千人の卒業生が全国で活躍している。著名な卒業生には、協和発酵の創業者、プロ野球セリーグコミッショナー、ジャズピアノ演奏者、NHKのニュースキャスター、歌手の竹内まりあ、等枚挙にいとまがないが、その中で「春日行雄」(中37期)という先輩がいた。一般の人には殆ど知られていないが、日本とモンゴルの友好関係構築には、この人を除いては語れないだろう。
 今から20数年前、東京での母校の卒業生の会「東京やくも会」(現在は東京いなさ会)に参加した時、初めてお会いした。人懐っこい笑顔を絶やさない丸顔の人だったと記憶している。同席しておられた先輩から、この人はアポイント無しでモンゴルの大統領に会える唯一の日本人だという紹介を受けたが、まさか、凄い偉業を行っている人とは思われず、たわいもない会話をさせて貰った。
 そして、失礼にも宴会場でモンゴル語で私の名前を書いて欲しいとお願いしたら、嫌な顔もされず、快くテーブルにあった紙に書いて頂いた。今、思えば私の名前ではなく春日さんのモンゴル語のサインを貰えば良かった。モンゴル語で書いて頂いた私の名前の紙は今でも大切に持っている。いつも財布の中に忍ばせていて、ことある毎に人に見せ「春日」先輩の話をしている。
 毎年一冊書いているコラムに、このサインのことを書いた。そして、サインの写真も載せた。その関係であろう、同窓生の石飛博雄君が、「春日」先輩の記事が載った山陰中央新報を送ってくれた。その記事は、訃報だった。その記事をかいつまんで紹介する。

 春日行雄氏死去 斐川出身 元日本モンゴル協会会長 90歳 春日行雄(かすがゆきお)氏が、6月2日肺炎のため横浜市内の病院で死去した。90歳。
 1997年8月、首都ウランバートル郊外の草原に、孤児のための「テムジン友塾」と名付けた施設を私財を投じて開設した。
 旧制大社中学を卒業後の1939年、18歳でモンゴルに渡った。蒙古軍の軍医候補生としてハルビンの旧満州国陸軍軍医学校に学び卒業。ウランバートルで2年間、抑留生活を送った。帰国後は松江市保健所長を務めたほか大和紡績、日本郵船などで医師として勤務。1964年に社団法人・日本モンゴル協会の設立に携わり、1997年4月から5年間、会長を務めた。
 同協会の吉田順一会長(早稲田大学名誉教授)は、「両国の友好親善を考える上で最も重要な人物と思う。行動力があり、島根弁独特の味わいのある語り口で、後援会を通じファンも多かった」と振り返った。

 また、もうひとつの紙面では、創立以来の日本モンゴル協会の運営、外蒙戦犯の釈放、モンゴル抑留日本人墓参、ハル河畔現地慰留、テムジン友の塾運営など、日本とモンゴルの友好親善に一生を捧げられ、また日本とモンゴルの深い絆となられた。
 テムジン友の塾に汎モンゴルの夢を託された春日さん。成田山新勝寺鶴見照碩貫主を動かし、小渕首相を動かした春日さん。ああ、惜しい人が逝った、とある。

 今となっては悔やまれるが、もっと詳しく伺えば良かった。苦労人に共通しているのは、苦労された雰囲気が全くない。当たり前のことをしているだけだよ、という人が殆どである。私の思い出の中の春日先輩もそうである。にこやかに人生を謳歌しておられるようだった。

 モンゴルへの憧れは旧制大社中学時代に芽生えたという。校内弁論大会で「新しき土地を求めて」と題して決意を表明、更に校友会誌で「曙の子」を発表して蒙古への夢を描かれた。そして、その夢を着実に実現していく意志の強さと実行力には驚嘆せずにはいられません。
 戦死された兄からの手紙に「全ての名利や打算を捨て大いなる目的に向かって自らを試すのだ。鍛えるのだ。結局は胆だ。まっしぐらに進め。錦を着て故山の土を踏むなど浅ましい考えは決して持つな。蒙古の涯、砂漠の土に埋もれ何人に知られず世に終わろうとも悔ゆることはない。烈々たる雄志あらば不滅だ。先駆者の誇りを抱きその悩みに耐えよ。」とあり、これが人生のバックボーンとなったらしい。
 ここまで凄い考え方で偉業をなされている人とは気付かなかった未熟な私が悔やまれる。いつか、春日先輩の軌跡を辿って見たい。

 

Kinki Inasakai