杵築中の選手、応援団長の写真
部 長 山田孝太郎         主 将 春日隆行           選手監督 西村藤作(五年)
記録係 福舎正明(四年)      投 手 春日熊右衛門(五年)     捕 手  西村吉晴(五年)
一塁手 竹内京三(五年)      二塁手 高橋善之助(三年)      三塁手  飯山幹治(四年)
遊撃手 鈴木敏則(五年)      左翼手 落合千代吉(三年)      中堅手  春日隆行(五年)
右翼手 田中海志郎(三年)         長崎賢二郎(四年)           福間正雄(四年)
    門脇
野球部後援会の発足(七生第13号より)
 杵中野球部が5年振りに山陰野球大会に於いて優勝旗を獲得したが、これまで野球後援会なるものが熱心なる少数の卒業生によって成立していたが、此の際もっと具体的な後援会を組織して杵中選手をして鳴尾のグランドにおいて中央の覇権を握らせてやらうと竹内・千家・森・秦・米原その他の諸君の発企によって成立したのが米子から選手が帰杵した8月7日のことであった。会則が出来たのもこの時であった。
 鳴尾球場
 鳴尾球場は阪神電車が当時鳴尾にあった競馬場の走路の内側の4万4千坪(約16万5千平方メートル、大社高校の全敷地の4倍)という大きな空き地を借りて、一周800メートルという陸上競技場内に、東西2つの野球場を盛り土して作った、すごく広いもので、同時に2試合ができ、大阪朝日新聞主催の全国中等野球大会に使用する条件のもとに作ったものであった。競技場の中なので見物席も、高い固定したものは作れない。それでわずか8段の高さ二間ほどの移動スタンドを沢山作って本塁の後方から左右両翼へ並べた。5、6千人の観覧席があった。
 この球場は今は住宅地となって跡形もないが、大正6年から12年まで7年間の会場であった。杵築中学時代にこの会場における全国大会には2回出場したのである。
 この球場では観覧者がさばき切れなくなって、大正13年には現在の甲子園球場が建設された。
第7回全国高校野球選手権大会(兵庫県西宮市 鳴尾球場)
 大正10年8月14日に開会式が挙行された。全国の剛17チームは九州の雄豊国中を先頭にダイヤモンドを一周し、200名の健児が投手板の前方に整列した。杵築中学は、第一日の第二試合に出場し、朝鮮代表の釜山商業と対戦した。
釜  山 2 2 0 0 2 0 0 3 2 6 = 17
杵  築 0 3 1 1 0 0 0 0 2 0 = 8
 ●三塁打 西村 ●二塁打 白井、三好、浅野 ●試合時間 2時間40分

<釜 山>    打  得  安  振  球  犠  盗  刺  補  失
 (遊)福 田  6  1  1  1  0  0  0  4  5  1
 (三)横 道  5  5  2  0  1  0  2  2  2  2
 (二)村 田  6  3  4  1  0  0  2  2  3  6
 (左)三 次  6  1  2  2  0  0  1  2  0  0
 (一)白 井  6  2  3  1  0  0  2  10  2  1
 (投)山 本  6  1  2  3  0  0  1  0  5  0
 (捕)二 木  4  1  1  2  2  0  1  6  5  0
 (右)下 条  4  1  0  0  0  1  1  0  0  0
 (中)鈴 木  4  2  0  0  1  0  0  1  1  0
    残塁 7  47   17  15  10  4  1  10  27  23  10

<杵 築>    打  得  安  振  球  犠  盗  刺  補  失
 (一)竹 内  3  0  0  0  2  0  1  6  0  2
 (遊)鈴 木  4  0  1  1  0  1  0  1  1  4
 (中)春日隆  5  1  0  0  0  0  0  1  0  0
 (左)落 合  5  1  1  2  0  0  0  2  1  0
 (捕)西 村  4  0  1  0  0  0  0  13  2  1
 (投)春日熊  4  3  1  1  0  0  2  0  1  0
 (右)田 中  3  2  1  1  1  0  1  0  0  0
 (二)浅 野  4  1  1  0  0  0  0  1  3  0
 (三)飯 山  4  0  2  0  0  0  0  3  0  3
    残塁 5  36  8  8   5   3  1   4  27  8  10
試合経過
1 回

(釜山)福田第一球を二塁前に内野安打し、続く横道死球に出で三好の遊匍に福田生還し、白井の三匍失に横道入り二死後二木四球で満塁となったが下条の二匍で止み2点を先制した
(杵築)竹内四球に出たが鈴木の三振不死に併殺され春日隆三邪飛に倒る。
2 回
(釜山)鈴木四球に出で福田三振後横道の遊匍失一塁暴投で鈴木三塁に進み村田の遊撃内野安打で生還し、三好の三匍失に横道入り、白井の捕前バンドに村田倒れ山本左飛に死す。
(杵築)落合三振、西村遊匍の後春日隆二匍失に出で盗塁し田中三匍失に出で三、二塁に進んだ際浅野の二飛失を一塁に失して春日、田中入り飯山の中前安打に浅野入り3点を奪ふ。
3 回
(釜山)二木捕邪飛、下条二匍。鈴木一飛。
(杵築)鈴木投匍の後春日隆二匍悪投に二塁を得、西村の遊触三塁打に春日生還し4対4の同点となり春日熊三振に止む。
4 回
(釜山)福田三飛に死後横道投触安打に出で続く村田遊越安打し三好三振後白井の中前連安打に2者生還、山本三振す。
(杵築)
田中四球に出で浅野の右翼打に入り飯山二匍、浅野三本線上に挟殺され竹内四球に出たが鈴木の二跳安打に竹内本塁に長駆して刺さる。
5 回
両軍入らず。
6 回
(釜山)福田遊匍に死後。横道遊匍低投に出で盗塁したが村田の左直に併殺された。
(杵築)春日熊内野安打し田中三振、浅野遊匍後三塁に達し飯山の右匍安打に生還し再び同点となり試合はいやが上にも緊張す。飯山盗塁に倒る。
7 回
(釜山)三好三振後白井左中間に2塁打し続く山本三遊間を抜く安打を放ち二木三塁上に絶好のバンド安打し白井生還、山本捕逸に入り2点を占め下条投匍野選に生き更に鈴木の二匍に二木入り福田二直に止み此間3点を加えて気勢を揚ぐ。
(杵築)凡退。
8 回
(釜山)横道投匍一失に出で村田遊匍内野安打し捕逸に2者進塁し三好の左前安打に2者入り白井三振に三好三塁に併殺され山本三振。
(杵築)落合三後に安打し二塁悪投に一挙三塁を占め西村の遊撃匍野選に入り1点を加え、春日熊の投匍に西村二塁に封殺され田中左中間安打に進み浅野の遊匍失と悪投に春日熊入り飯山投匍竹内の三匍に止む。
9 回
(釜山)二木三振の後下条一飛失、鈴木三遊失に出で福田三邪飛に死後横道の中前安打に満塁となり村田の右匍安打に2者入り、更に三好の左越2塁打に2点を加え白井安打に出で山本また三遊間に安打して2点、計6点を加えたる。
(杵築)最期の攻撃を試みたが走者無く・・・。(零時40分閉戦)
   概 評  近藤委員
 両軍共に守備攻撃は拙劣で殊にチームウォークが全然欠けて居る為に両軍共に多くの得点を与えた。技倆は伯仲で一流チームに伍するには余程の練習と修養を要する。両軍に願ひたいことは野球の根本である球を捕り投げることを確実にやって貰いたいことである。

   大阪毎日新聞の概評  西尾守一
 「技倆は伯仲して居るがまだ両者共優勝圏内には余程距離がある、良コーチと今後の練習を要する」
   山陰大会決勝戦のエピソード
 山陰大会に出場した杵築中学の下馬評は低く、春の米子中学との練習試合では6対11で負けており、その米子中学との決勝戦に臨んだ杵築中学だったが、勝利に驕る米子中学は、全町民が胸に「勝テ、勝ツ、勝ッタ」のペナントをつけすでに杵築中学を度外視していた。
 全国大会出場のかかっている米子中学との決勝戦の前夜、春日隆行主将は春日熊右衛門と共に、宿舎近くの稲荷に深更の願立てを行ひ、水垢離をとり優勝を祈願した。試合当日の朝、竹内京三選手の父君が持参した米の粉を選手は少しずつ飲まされ試合に臨んだが、これは米の粉つまり米子をのむといふ縁起をかついだものだった。
 また、米子中学との決勝戦の時のことである。杵築中学が1対6で7回までリードされ、8回表杵築攻撃のとき打者春日主将がスローボールを左前に安打し一塁に生きた。このとき風でとんだ春日選手の帽子を米子の大倉投手が足げにしたようなしぐさが見え、応援団が怒った。帽子の中には出雲大社と同選手の氏神のお守りが縫ひ込んであったのである。その場はおさまったが、それからといふものは杵築が打てばヒットか敵失でその回だけでも一挙9点も入れて逆転、結局11対6で勝った。春の対戦の点数と同じというのも奇遇である。
 また、試合最中に本部席前においてあった優勝旗が、風もないのに杵築中学応援席の方へ倒れたのも不思議と思へることであった。これらのことがすべて勝利に結びついた恰好になった訳である。
第7回大会のレリーフの写真



Kinki Inasakai