百年史関連

阿部 知二

阿部知二文学碑
 遥堪の弥山登山口と湖北線が交差する交差点に阿部知二の文学碑がある。この場所には江戸時代関所があり、菱根関屋といわれ関根松は大社八景のひとつに数えられていた。
古くから菱根には、出雲大社神領の東の入口として関所が設けられていた。京保2年(1717)の「雲様詩」に「山頭に老松5株あり。関屋の松という。由来知れず、側に石地蔵あり」と記されている。この石地蔵が、慶長年間の洪水で上方から流され、湖底に沈んでいたのを、“夢さとし”によって拾い上げられたという。これを“関屋地蔵”といい、この北方の道沿いに安置されている。という看板が掲げられている。今は看板があるのみ。
その看板の奥に阿部知二の石碑は建てられている。石碑には次の碑文が刻まれている。

 自然の中に美しきものを探り
 人間の中に善きものを求める
          阿部知二

阿部良平とその家族:夫人の横に後に作家となる知二
 阿部知二は、明治36年(1903)6月26日岡山県勝田郡湯郷村中山(現美作市中山)に生まれた。同年4月に父良平が鳥取県立第2中学校(現米子東高校)に奉職していたことから、母に伴われ兄と共に生後60日で湯郷村中山を離れ米子に移った。しかし、米子に居たのはわずか一年で、明治37年4月20日、父良平が島根県立第3中学校(現大社高校)教諭になり一家は大社に転入した。
 後に小説家・評論家・英文学者となる知二は、幼少期を遥堪村と杵築町で9年間過ごしている。小学校は遥堪村小学校に入学したが、一年と少しで杵築町小学校に編入、一家は杵築中学校寄宿舎に移り住むことになった。
 阿部知二先生文学碑建設趣意書によれば、知二の文学的業績について次のように述べています。
 東京帝大文学部英米文学科卒業後は、文化学院・日本大学・東北大学などで教鞭を取られ、傍ら文筆活動もなされ、その創作は有名書店の文学全集に必ず収録されて、天下の知名作家となられたことは、我々郷土の誇りとする処であります。私たちは茲に、明治百年(昭和43年)を記念し、大社町の郊外の一角に先生の文学碑建設し、其の御功績を伝うる事を企画する光栄を得ました。先生のお送り下さった歌に、「ふるさとの 山べの空に しら雲の 流るる見れば こころ静まる」があります。弥山にかかるしら雲 知二」があります。それは先生の胸に今も往来するイメージにちがいありません。
 文学碑が建設されたのは、昭和43年11月3日の文化の日でした。先生が逝去されたのは、それから5年後の昭和48年4月23日のことです。享年69歳でした。

Kinki Inasakai