(後列左から)佐野、佐藤(幸)、福間、岩成、長岡、佐藤(啓)、佐藤(澄)、原部長 (中列左から) 奥井、 山本、 勝部、 長谷川、 森井 、 (前列左から) 今岡監督、 北井教諭、 槙野、 石飛、 須藤、 飯塚教諭、 山崎 |
部 長 原 和夫 監 督 今岡 実 主 将 石飛昌彦 投 手 森井博一(三年) 捕 手 須藤由樹(三年) 一塁手 槙野安浩(三年) 二塁手 石飛昌彦(三年) 三塁手 長岡和宏(三年) 遊撃手 坂本秀樹(二年) 左翼手 春木正浩(二年) 中堅手 勝部裕幸(三年) 右翼手 佐藤浩治(三年) 山本竹男(三年) 岩成恭司(三年) 名瀬川延正(三年) 祝部祐二(二年) 春日正満(二年) 前田 貴(一年) 岡本春生(一年) 大田竜馬(三年) 佐野靖宏(三年) 佐藤啓司(三年) 福間英文(二年) 記 録 奥井雅彦(三年) マネージャー佐藤澄子(三年) 山崎節子(三年) |
昭和57年島根県秋季東部地区予選 一回戦 大 社 406 044 0 = 18 出雲工 201 101 1 = 6 (7回コールドゲーム) (大社)森井、祝部ー須藤 (出雲工)勝部、杉谷、勝部ー高野 ▽三塁打=坂本2、春木2(大社)杉谷(出雲工)▽二塁打=春木(大社)藤原(出雲工) 二回戦 松江農 010 000 0 = 1 大 社 552 013 X = 16 (7回コールドゲーム) (松江農)福田、重富、中村ー須山 (大社)森井ー須藤 ▽三塁打=須藤(大社)▽二塁打=石飛、森井、佐藤(大社)園山(松江農) 昭和57年島根県秋季大会(10月10、11日) 一回戦(10月10日) 大 社 002 000 102 = 5 浜 田 000 000 000 = 0 (大社)森井ー須藤 (浜田)橋田ー佃 ▽本塁打=坂本(大社) 準決勝(10月11日) 大 社 101 010 013 = 7 邇 摩 000 000 000 = 0 (大社)森井ー須藤 (邇摩)窪田ー松浦功 決勝戦(10月11日) 大 社 000 000 120 = 3 江 津 000 001 000 = 1 (大社)祝部ー須藤 (江津)正岡ー六信 ▽本塁打=春木(大社)▽三塁打=須藤(大社)斎藤(江津)▽二塁打=斎藤(江津) 7回に春木のランニングホームランで活気づいた大社が、8回の好機に2長短打を集めて逆転勝ち。江津は打力で勝ったが、雑な攻めで好機をつぶし明暗を分けた。 前半まで江津が押し気味に試合を進めたが、大社は持ち前の堅実な守りでピンチをよくしのいだ。しかし、6回ついに1点を許し、江津が逃げ切るかに思えた。ところが大社は7回表、先頭の春木が中前に痛打。打球はゴロでフェンスまで達し、春木はこの間に俊足を生かして生還、同点にこぎつけた。起死回生の一発に打線が勇気づけられ、8回には2死2塁から須藤の中越え3塁打で逆転、さらに森井の左前打で勝利を決定づけた。 中国大会 第59回中国地区高校野球大会が10月13日から16日まで、広島市民球場で、中国5県から秋季大会の優勝・準優勝チーム10校が出場し中国一の座をかけて熱戦を繰り広げた。 出場校は、大社、江津(島根)、米子東、由良育英(鳥取)、広陵、広島商(広島)、岡山南、倉敷工(岡山)、宇部商、岩国工(山口)。 1県2好、10チームが出場した中国大会。同じ県のチーム同士が決勝戦までぶつからないようA,Bゾーンに分けられた。その結果はキウジのいたずらか、岡山南、宇部商、米子東、大社、広陵の各県優勝校がそろってBゾーンに集まった。 二回戦 大 社 000 002 041 = 7 岡山南 000 000 000 = 0 (大社)森井ー須藤 (岡山南)横谷ー秋山 ▽三塁打=森井、坂本(大社) ▽二塁打=秋山(岡山南)森井、石飛(大社) ▽ボーク=横谷(岡山南) 大社の勝負強い打線が後半に横谷をとらえ、投げては森井が要所を締めて完封勝ち。選抜出場に大きな布石を打った。 5回まで両チームとも毎回のように得点圏に走者を送り一進一退の攻防を続けたが、決定打を欠き勝負は後半にもつれ込んだ。互角の展開から一気に流れを変えたのは大社の6回裏の攻撃。先頭石飛が四球、やや打撃不振の須藤は中飛に倒れたが森井の打席に石橋が果敢に二盗、なおも好機は続く。森井は2−2後の内角直球を強振左中間を抜く三塁打で1点先取。均衡を破り、更に横谷のボークで1点を加えた。元気づいた打線は8回には3連打、9回にも長打攻撃などで効率よくダメ押し点。森井は10安打を奪われ再三ピンチを迎えながらも、得意のカーブで後続を断ち攻守にわたって冴えをみせた。 準決勝 大 社 000 000 000 = 0 宇部商 000 021 00 × = 3 (大社)森井ー須藤 (宇部商)秋村ー中富 ▽二塁打=中富(宇部商)春木(大社) 大社は数少ない好機にできる限りの積極策で相手を揺さぶったが切れのいいカーブを武器にする秋村から決定打が奪えなかった。 2点を追う大社は6回表、一死から佐藤が中前にチーム初安打。続く坂本は大きく落ちるカーブを打たされ、二ゴロ併殺かと思われたが、エンドランに救われ佐藤は二塁に生きた。更に三盗を試みたが好送球にあい憤死。8回表にも一死後、春木の左中間二塁打で反撃機をつかんだが、後続を断たれた。なおも9回表、一死から四球を選んだ坂本が二盗を試みて最後まで食い下がったものの、強肩中富に刺され自慢の機動力を生かし切れなかった。 宇部商秋村は心にくいまでの冴えた投球術。絶妙なコースに球威のあるカーブを決め、大社打線は完全にタイミングをはずされた。低めのカーブを捨てて直球に的を絞ったが、急速に押され散発2安打。反撃の決め手を欠き、カーブ攻略に課題を残した。 一方、森井もバックに盛り立てられながら5、6回以外は毎回三者凡退に仕留めた。それだけに5回の制球難が悔やまれる。連続単打などで無死満塁とされ、動揺したのか力みがみられ四球押し出しで2点を献上、主導権を奪われる結果となった。 島根県大会3度目の優勝の後、中国大会で岡山南に大勝し準決勝でも宇部商と好試合を展開、敗れはしたものの第55回選抜高校野球大会へ大きな望みをつないで本年の公式戦を終了した。来春の選抜大会は例年より2校多く、中国地方からの出場が4校になると見込まれていること、倉敷工が大差で敗れたことなどから大社の出場は有望とみられた。 |
第55回選抜高校野球大会(兵庫県西宮市 甲子園球場) 甲子園球場での記念写真 昭和58年2月1日午後4時半を少し回った頃、待望久しかった朗報が舞い込んだ。選抜選考委員会から大社が出場校に決定したとの知らせが電話で藤井継郎校長のもとに届いた。7年ぶり2度目の選抜出場である。初出場を果たした第48回大会の時と較べれば今回の出場は可能性はずっと大きかったものの、選考当日は校内には朝から落ちつかない雰囲気が漂っていた。午後4時前になると電話の回線を確保するため外部への電話使用は禁止され、関係者、教職員らが校長室へ詰めかけて選考委員からの電話を待っていた。知らせと同時に校内放送が流れ、校舎のあちこちから歓声がわき上がった。原和夫野球部長がグランドへ走り、バッティング練習中の部員に出場決定を知らせた。みぞれまじりの天候の下、部員達は被っていた帽子を一斉に投げあげて喜びを表した。今岡監督の胴上げ。続いて控えに回り縁の下の力持ちの役を果たしてきた部員たちが宙に舞った。中山敏三OB会長や部員の父兄らも祝福にかけつけてきた。町内も久しぶりの甲子園出場の快挙にわきかえった。 翌2日には「大社高校58(センバツ)後援会」が結成され会長に千家達彦いなさ会会長、副会長に竹内繁蔵町長、竹内啓司PTA会長、青木幹夫県会議員を選出し、支援体制が整った。出場が決定すると練習にも一段と熱が入り、グランドにも浜山のランニングコースにも活気があふれていた。2月23日には午後2時からセンバツ旗授与式が体育館で行われ、佐藤毎日新聞松江支局長よりセンバツ旗が藤井校長に渡された。式に先立ち校庭に1、2年生520人が「センバツ 大社」の人文字を描き、新聞社機よりメッセージが投下された。3月に入り10日から4日間の合宿で本番を目前にしての総仕上げをした。 そして22日国鉄大社駅頭での盛大な壮行式のあといよいよ甲子園へ向け出発した。宿舎は「かぎ家旅館」である。大阪入りのあと選手らは在版OBや卒業生の好意で練習場を確保でき、調整の日々を過ごすことができた。26日の開会式では選手は出場校31校中11番目の学校として堂々の入場行進をした。内野スタンドでは川上滝郎前監督が今岡監督と並んで見守っていた。
この年のチームは、近年見られないほどの破壊力を持った攻撃型のチームであった(チーム打率3割2分8厘)。しかも、全員が長打力を秘めていて、振り切るバッティングをしていたため、打球の速さも県下では抜群であった。ことに須藤、石飛の打率は4割を上回り、合わせて11本の本塁打を放って選抜出場校の打撃上位20傑に名を連ねるところとなった。これはパワー野球を目指し県下でもいち早く科学的な筋力アップトレーニングにとりくんだ成果でもあった。また107個の盗塁数が示すように機動力をフルに生かした積極的な試合運びを得意としていた。一方投手力はエース森井が前年夏の大会から復活し、右横手からシンカー気味のシュートを武器に度胸満点のピッチングで安定していた。チームの甲子園での目標はベスト8。 |
入場行進する大社高チーム 開幕前の24日に組み合わせ抽選会が大阪毎日ホールで行われ、初戦の相手は山梨県代表の峡南高校と決まった。峡南高校のエース伊藤は、巨人軍の堀内2世ともいわれ135キロの剛球を投げる本格派で、関東随一との前評判が高かった。 |
(第55回選抜出場メンバー) (部 長)原 和夫 (監 督)今岡 実 (コーチ)安食 昭男 (主 将)石飛 昌彦 (投 手)森井 博一 (捕 手)須藤 由樹 (一塁手)槙野 安浩 (二塁手)石飛 昌彦 (三塁手)長岡 和宏 (遊撃手)坂本 秀樹 (左翼手)春木 正浩 (中堅手)勝部 裕幸 (右翼手)佐藤 幸治 (投 手)祝部 祐二 (投 手)開出 牧 (内野手)岩成 恭司 (内野手)奥井 雅彦 (内野手)福間 英文 (外野手)長谷川延正 (外野手)山本 竹男 (外野手)佐藤 啓司 (外野手)大田 竜馬 (外野手)佐野 靖宏 |
あの頃のこと 元野球部長 原 和夫 生来の野球好きも手伝って、私は教員になって以来、高校野球と何らかの関係を有してきたが、昭和56年から59年まで、とうとう、名門大社高校の野球部長をつとめることになった。 もとより私のような者に、この長い歴史と伝統に輝き数多の名選手好選手を生み出した大社高校野球部の部長という重責を果たせる自信など全くなかったが、自分なりの最善を尽くして野球部発展に少しでも貢献しようと決意したのである。 昭和56年といえば、大社高校がその前年に旧制中学校の思い出の地である鹿城丘から現在の浜山へと移転した時期にあたり、野球部の施設・設備も未完成あるいは不十分なものが多くあり、まずこれらの整備からスタートしなければならなかったが、体育振興会、野球部OB会さらに学校当局など関係各位のご理解ご支援により、バックネット、雨天ピッチング練習場をはじめ他校もうらやむような立派な設備が次々と完成したのである。部員たちも今岡監督指揮の下で、遠い遠い先輩から脈々と受け継がれてきた栄光と名誉をきずつけまいと猛練習を繰り返し、周囲の方々の温情ある声援に応えようとしたのである。 お陰で戦績の方も、先人たちの偉業には遥かに及ばないながらも、昭和58年春のセンバツ出場をはじめ、春秋合わせて4回の中国大会出場など野球部の松明の灯を守り通すことができたのではないかと思っている。 なかでもハイライトはやはりセンバツ出場であろう。 前年秋の中国大会(広島市民球場)で、優勝候補の一角、岡山南に勝ち準決勝で宇部商に敗れはしたものの翌春には甲子園へ行けるかも知れないという期待が急速に高まったのである。しかし、私にはピンと来ず、出場が正式に決定しても、ホッとはしたがまだ半信半疑であったように思う。 甲子園への出発までは、報道陣OBなど野球部関係者に見守られての練習が続いたが、日一日とムードが盛り上がるのを肌身で感じることができ緊張の中にも伝統大社でこのような体験が味わえることになる幸福感に包まれての毎日であった。 センバツ1回戦の相手は山梨・峡南であった。このチームには大会屈指の好投手伊藤がいた。この試合、大社は押され気味であったが大社ベンチの雰囲気は明るいものがあり重苦しい空気など全くといっていいほどなかった。私自身も味方にピンチが訪れても不思議なくらい落ち着いて今岡監督の采配や選手たちのプレーを見ておられたように思うのである。結局このゲームは最終回坂本のツーランホーマーで大社が勝ち、全国津々浦々に校歌が流れたのである。甲子園に流れる校歌を聞いた時の感激は格別なものがあった。 大社は次の東北戦も接戦のすえものにして待望のベスト8に進出。四国の雄、池田と対戦することになった。池田は水野投手(現巨人)を中心とした強力チームであり、この大会優勝候補筆頭にあげられていて戦前の下馬評でも大社不利というのが多かったようである。しかし、超満員の観衆の中、大社ナインは持ち前の伸び伸び野球で果敢にこの強豪に挑戦し、敗れはしたものの爽やかな印象を残して甲子園を去ったのである。 このセンバツを通して私が感じたことの一つは、大社高校野球部というものは、単に体育系の一クラブであるのみならず、大社高校という学校そのもの、あるいは学校の歴史そのものではないだろうかということである。 今こうしてあの頃ことを思い出すままに書きつづっている時、私にはどうしてもふれておきたいことがある。 それは、野球部を陰で支えてきた部員、マネジャー達のことである。グランドの草むしりや水まき、ボールふき、ノックのボールわたし、フリーバッティングのピッチャー、フェンスのペンキ塗り、冬の焚火の薪あつめ等に黙々と精を出した彼ら、彼女らのことである。 輝かしい伝統というものもこういう人たちの働きや努力がってこそ維持・発展できるということを忘れてはなるまし。 このたび、大社高校野球部史の続刊が編纂されるに際し、真心からのお祝を申し上げ、同時に短い期間であったが野球部と縁をもてたことに感謝し、又、たくさんの人々に愛され守られてきた大社高校野球部が益々隆盛の一途を辿られることを切に祈りつつ、拙文を閉じることにする。 |
Kinki Inasakai