百年史関連

<簸川郡の誕生>

明治期の各郡
 明治21年(1888)市制・町村制の交付によって縦縫(出雲市の一部、小境町、坂浦町以西かつ斐伊川、東材木町、西材木町、別所町、唐川町、猪目町より北東)、出雲(出雲市の一部、斐川町各町)、神門(出雲市の一部、西谷町・佐田町須佐・佐田町朝原・佐田町原田・佐田町反邊・佐田町大呂・多伎町神原を除く斐伊川以西かつ武志町、稲岡町、里方町、日下町、矢尾町、大社町各町以東、大田市の一部、山口町佐津目・山口町山口)の3郡にも合併した新町村が誕生した。しかし、急激な町村合併によって成立した新町村にあっては、複雑多岐にわたる国家行政事務を円滑に遂行することは、容易ではなかった。また、自主的側面を持つことにより従来からその内部に存在していた旧村的対立や町村間の対立を顕在化させた。
 他方、日新戦争前後から軽工業の発展は著しいものがあった。産業近代化に取り残されないためには、教育の充実が大きな課題となっていた。こうした動きの中で、明治28年3月、大浦知事は殖産協議会を招集し、県の「殖産10年計画」を示した。
 会員は、ほぼ郡単位の「豪富の徒」であった。この計画内容は従来の産業を変化させるものではなかったが、農事試験場・農事講習所の設立・農会の設立などが提案された。これらの施行にあたっては、町村を越えて県との間をとりもつ強力な執行機関がどうしても必要であった。
 明治23年県制・軍制は公布されたが、郡の施行はなかなか進まなかった。それは、近世以来の伝統的な郡を統廃合しなければならなかったである。しかし、ここにきて、新町村の指導監督、利害対立の調整、そして新たな殖産興業のためにも、強力な執行力をもつ機関として郡の統合とその強化は差し迫った問題となっていた。従来から関係の深かった楯縫・出雲・神門の3郡は、他の地域に比較してスムーズに合併し、明治29年(1896)4月、簸川郡は誕生した。
 郡は官選郡長が実験を握っていたが、選挙によって選ばれた議員による郡会をもち、独自の財政権を持っており、県の指導はあったが郡独自の施策も実行できた。このとき誕生した簸川郡は、島根県で最も大きな郡であり、簸川郡の県下に占める位置は大きかった。

Kinki Inasakai