百年史関連
<簸川郡の誕生> |
![]() 他方、日新戦争前後から軽工業の発展は著しいものがあった。産業近代化に取り残されないためには、教育の充実が大きな課題となっていた。こうした動きの中で、明治28年3月、大浦知事は殖産協議会を招集し、県の「殖産10年計画」を示した。 会員は、ほぼ郡単位の「豪富の徒」であった。この計画内容は従来の産業を変化させるものではなかったが、農事試験場・農事講習所の設立・農会の設立などが提案された。これらの施行にあたっては、町村を越えて県との間をとりもつ強力な執行機関がどうしても必要であった。 明治23年県制・軍制は公布されたが、郡の施行はなかなか進まなかった。それは、近世以来の伝統的な郡を統廃合しなければならなかったである。しかし、ここにきて、新町村の指導監督、利害対立の調整、そして新たな殖産興業のためにも、強力な執行力をもつ機関として郡の統合とその強化は差し迫った問題となっていた。従来から関係の深かった楯縫・出雲・神門の3郡は、他の地域に比較してスムーズに合併し、明治29年(1896)4月、簸川郡は誕生した。 郡は官選郡長が実験を握っていたが、選挙によって選ばれた議員による郡会をもち、独自の財政権を持っており、県の指導はあったが郡独自の施策も実行できた。このとき誕生した簸川郡は、島根県で最も大きな郡であり、簸川郡の県下に占める位置は大きかった。 |
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