歴代大社高校野球部写真


昭和26年
昭和26年野球部員の写真
(後列左から) 荒木、鈴木、川上、原、園山、森山、渡部
(中列左から) 山ア、松田コーチ、佐藤、土肥、永見、永見、服部、万代、児玉、森山
(前列左から) 勝、千家先生、秦部長、伊沢コーチ、兼田コーチ、黒田コーチ、石飛先生、藤原監督、澄田
部 長 秦 明正  監 督 川上滝郎  コーチ 伊沢清秀(慶応)  兼田(同志社)  黒田(同志社)
主 将 児玉幸雄     マネージャー 万代吉高(3年)
投 手 澄田邦夫(3年)    捕 手 土肥一教(2年)    一塁手 園山 京(2年)
二塁手 服部 晃(2年)    三塁手 原 輝美(2年)    三塁手 永見和弘(1年)
遊撃手 森山利一(2年)    左翼手 児玉幸雄(3年)    中堅手 佐藤恭平(2年)
右翼手 山ア雄司(2年)    鈴木輝夫
 東中国大会島根県予選
 この年の11月秦野部長らの努力により、現在の場所(神門通寄り校庭、旧相撲場横)砂漠と称した所に野球場新設の工事が始められた。従来の野球場は一部がサッカー部、陸上競技部と共用であったため再三使用上争いがあった。また左翼が狭く野球場として不適当であったことなどから球場の新設は強く望まれていた。2人の卒業生を出し、児玉幸雄選手が主将となり、豪球投手澄田邦夫選手とともにチームをまとめていった。
 夏の大会をひかえて中央から2人のコーチを招いた。これは戦後初のことであり、夏の大会への意欲は充分であった。
 予選展望によれば、”右投手澄田さえ好調ならば優勝も不可能でないという自信をもっている。さきに慶応伊沢選手(米子出身)を迎えて約一週間猛練習を続け、後同志社兼田捕手、黒田三塁手のコーチで合宿に入った。両者の指導はてき面で、好守走とも格段の進歩を見せてきた。投手澄田は剛球で重いのが武器。最近アウドロ、カーブにも自信ををつけた。リリーフ山崎はドロップの決め球持ちながらスピードのないのが難であったが、コーチを受けてからスピードが加わってきた。内野は1年時代からの選手でそつがない。外野陣は昨年と同じ不動のメンバーで完璧である。打撃は3番から6番まで大物打の児玉・澄田、好打者園山、ピンチ強い服部などそろっている。春以来の成績は11勝13敗、この年になってからの戦績はよいとはいえなかったが、コーチ招へいの実をあげて夏の大会に臨んだ。
 第33回全国高校野球選手権大会島根予選は、7月20日から松江球場で11チームが参加して挙行され大社は1回戦で松江高校を5対2で破って2回戦の松江産高戦に臨んだ。

 準決勝(7月22日)          打 安 四 振 失
大社 003 000 010 = 4  30 5 4 0 1  〇大社 澄田、山崎 − 土肥
松産 000 010 50× = 6   29 7 4 0 2  〇松産 杉原 − 渡部

 大社澄田は前半速球で松産打線をよくおさえていたが、後半乱れ野手の失策も手伝って大社は自滅した。松産杉原は前半不調であったが、後半ようやく立ち直り、大きくわれるアウドロで大社をうち取った。結局この両投手の前、後半と立場をかえた好、不調がこの試合を大きく左右した。松産七回の逆襲は澄田・山崎両投手から四球や二塁打2本を含む4安打、犠打、スクイズ、敵失などを交え大社の内野陣をくずし見事逆転した。
 主将として外野を守った児玉幸雄と投手の澄田邦夫はともに松竹ロビンスに入団し一時第一線で働いた。その後、児玉は東京のロビンス交通に、澄田は協和発酵で投手として活躍し軟式野球チーム監督や山口県多々良高校野球部の監督なども勤めた。


昭和27年
昭和27年野球部員の写真
(後列左から) 藤原監督、荒木昇、鈴木、土肥、森山、園山、原、荒木亮
(後列左から) 大野、小村、服部、山崎、永見、川上、白石、佐藤
部 長 秦 明正    監 督 藤原和夫    主 将 服部 晃   マネージャー 渡部宣典(3年)
投 手 川上 裕(2年)    捕 手 土肥一教(3年)    一塁手 園山 京(3年)
二塁手 原 輝美(3年)    三塁手 服部 晃(3年)    遊撃手 森山利一(3年)
左翼手 山ア雄司(3年)    中堅手 鈴木輝雄(3年)    右翼手 荒木 亮(2年)
    永見和弘(2年)        白石弘志(2年)        荒木 昇(1年)
    糸賀千秋(1年)        佐藤佳正(1年)        森山 勇(1年)
 東中国大会島根県予選
 夏の大会に備え、信心川上、荒木両投手に投げさせ、山崎を左翼に、左翼の服部を三塁にまわして陣容を整えた。川上投手は速球とカーブに威力があり、心配される若さをバックがカバーすれば相当の活躍が期待された。
 第34回全国大会島根県予選は7月18日より出雲市設球場で挙行された。大社は1回戦で松江高校を5対1、2回戦で安来高校を12対0で圧勝し、出雲高校との準決勝に臨んだ。

 準決勝(7月20日)
出雲高校 000 115 011 = 9
大社高校 000 000 000 = 0

出雲高校  打 安 失   大社高校  打 安 失
C 黒 田 4 2 0   B 園 山 4 1 0
E 成 相 3 2 1   G 鈴 木 3 0 0
H 鈴 木 5 1 0   F投山 崎 3 2 0
@ 曽 田 5 1 0   C  原  3 0 0
A 黒 川 4 1 0   A 土 肥 3 0 2
B 小 玉 5 3 0   E 森 山 3 0 1
D  林繁 5 2 0   D 服 部 3 0 0
G 樋 野 2 1 0   @ 川 上 2 0 0
中 有 藤 2 0 0   左 荒木亮 1 0 0
F  林光 3 0 0   H投荒木昇 3 0 0

      38 13 1         28 3 3

 大社は一回に2安打を放ち滑り出し好調だったが、二回以後曽田投手の巧みなチェンジ・オブ・ペースに打棒をかわされ結局3安打の無得点に終わった。出雲の攻撃は四回小玉の左翼場外本塁打で口火を切り、六回には5安打を集中、四球後、敵失をおりまぜて大量5点をあげ、大勢を決した。
 大社は浜田球場で行われた東中国大会に出場したが、1回戦で境高校に7対0で敗れた。大会を制したのは境高校で初の甲子園代表となった。



 野球場の新設
 剣道場と講堂横の校庭には、野球場とサッカー場、それに陸上競技場が三重になっていた。一つの広場を三つの運動部が共有することは、いろいろな面で支障があり、練習も充分にできないことは明らかである。しかも技ゆる面で野球部が主となるような傾向にあり、部の間の感情をいよいよ悪化させていった。さらに左翼の距離も野球場としては短く不適当であったことなどから、他の場所にグラウンドを新設することが長い間望まれてきたのである。たまたまサッカー部との間にグラウンド使用にからむ表面的な確執があり、このことが秦野球部長をして新球場建設を決断せしめる直接の原因となった。
 昭和26年3月松浦俊明新校長就任を機に、秦野球部長は球場新設の必要を説き、その計画を披瀝し、実現を懇願した。秦部長の始めの計画は、大規模なものは望んではいなかった。生徒の労力を動員し30万円程度の費用であげようというものであった。校長は生徒の使用は拒否したが、資金の調達は引き受けることを約束した。
 直ちに松江工業速水講師(元京城勅任技師)に実測を依頼し設計図を作成した。(これが実現の元となった)候補地の神門通り寄り校庭は左右300フィート、中堅340フィートの球場ができる広さをもっていた。松浦校長は直ちに広瀬正一大社町長にこの計画に対するバックアップを要請したが実現は困難であった。ところが大社町の失業対策事業の仕事がなくなるという事態が生じ、幸いにもその対象としての県教育庁の承認を得て新野球場建設の事業が取り上げられることになった。
 失対費用200万円が当てられることになって工事規模は計画よりははるかに大きなものとなった。附属の諸設備は寄付で補うことにし、寄付を含めて全工事費250万円の予算で起工の運びとなったのである。中根教諭の提案により生徒の協力を得ることも認められ、態勢は完全に整った。
 そして10月末に着工された。砂は吉村屋所有の畠から1万円相当を譲り受け、不足分は竹乃屋旅館所有地から寄贈を受け、その運搬については簸川土木管区事務所工務課長大滝美三氏に相談、今岡(旧姓中沢)先輩の協力もあって斐伊川事務所から運搬用機材の提供を受けることが出来た。赤土は千家家の山林から譲り受け、日本鉄線や中山先輩経営の大社油脂会社の奉仕協力により運搬された。石炭ガラ払い下げは出雲保線区の長島宏先輩に依頼し、運搬は貨物の大谷隆義先輩の尽力によって行われた。
 ホームからバックネットまでの距離は60フィート、塁線からベンチまでは25フィートと何れも規則通りにとり、左右300フィート、中堅340フィートの広さをとった。内野は一番下の層に石炭ガラを40センチ、その上に赤土を20センチ、表面は細かい赤土と細かい石炭ガラを混ぜたものを使用して作りあげた。石炭ガラは排水をよくするために使用するものだが、全体的な必要量を確保できなかったため内野だけに使用し、外野は砂だけとし、その上に芝を植えた。芝は現場監督の長田三郎氏の世話によるものである。そして投手板の後方には散水設備を施した。バックネットの鉄骨は一畑電鉄、ワイヤーは西村氏、山陰ベニヤがフェンスの柱約400本、滝川産業が三塁側フェンス、ポールは千家尊有後援会長がそれぞれ寄贈し、日本鉄線は3万円相当額の輸送を引き受け、大社油脂よりは随時小型トラックにより輸送の援助を、マウンド後方の散水用水道施設は吾郷一義(高校1期)氏の奉仕により、中筋組の提供で基礎工事が行われて、見事な球場が完成したのである。プレートの下には故西倉実の選手にあてた激励文が埋められている。竣工は昭和27年6月であった。
 グラウンド開きは、倉吉東・境・米子西・米子東・松江・浜田・大田・出雲・出雲産の各チームを招待し盛大に催された。


昭和28年
昭和28年野球部員の写真
(左から) 永見一弘和、白石弘志、荒木 亮
(新球場右翼フェンスの裏で3年部員)
部 長        主 将 (年)     選手監督 (年)
投 手 (年)    捕 手 (年)     一塁手  (年)
二塁手 (年)    三塁手 (年)     遊撃手  (年)
左翼手 (年)    中堅手 (年)     右翼手 (年)
 東中国大会島根県予選
 全国の夏の大会予選出場校は1701校を数えた。またこの年の甲子園大会で初のテレビ放送が行われ一層注目を集めることとなった。一方滋賀県では予選中高校野球では珍しい不祥事を残している。1回戦の大津東と彦根東の試合で、審判の判定からもつれ、彦根東が放棄試合にしてしまった。
 大社は春、大量の卒業生を出したので新人が多く、春からの戦績はかんばしくなかった。しかし、荒木昇投手のピッチングもうまみを加え、ナインも若さが幸いして著しい進境を見せ、ダークホースとして活躍が期待された。またこの年から、球場新設を機に秦部長の辞意固く、田中教諭部長となり、川上監督、服部助監督のコンビで新発足した。
 第35回全国高校野球選手権大会島根予選は、7月17日から浜田球場で初参加の益田産高を加え13校が参加して挙行された。
 大社は1回戦で平田の粘りに苦戦をしたが延長13回裏サヨナラの2対1で勝利し、24日に出雲産との2回戦に臨んだ。

 2回戦(7月24日)
出雲産 101 001 000 = 3
大 社 000 000 000 = 0

出雲産   打 安 失   大 社   打 安 失
G 奥 井 4 2 0   G 伊 藤 3 0 0
C 安 井 3 0 0   C 白 石 3 1 0
A 金 築 4 1 0   @ 荒木昇 3 1 0
@ 石 川 3 1 0   F 荒木亮 4 0 0
D 板 倉 3 0 0   H 永 見 1 0 0
F 神 西 4 1 0   九 別 所 2 0 0
H 滝 川 4 0 0   D森 山  3 0 1
E 多々納 4 1 0   B 正 司 2 0 0
B 松 浦 4 0 0   捕 佐 藤 1 1 0
              A 佐 野 2 0 0
              一 篠 田 1 0 0
              E 糸 賀 3 0 2

   計  33 6 0      計  28 3 3

出雲産は石川が好調の上に守備にも破綻をみせず、攻守に優勝候補の貫録を示して堂々の勝利を収めた。大社は一回遊ゴロ失で1点を献じ、三、六回には長短打で加点されたが、荒木の力投を助けてナインの闘志は盛んで出雲産を3点に食い止めたのは悔い泣き戦いぶりであった。


昭和29年
昭和29年野球部員写真
(後列左から) 祝部幸、佐藤、大野、荒木、糸賀、田中部長、松井先生
(中列左から) 手銭、伊藤、祝部正
(前列左から) 高橋京、住谷、中山、長島、服部、高橋勲、
部 長 田中治雄      コーチ 川上滝郎(監督)   松田和彦  中村恒夫(明大)
主 将 荒木 昇     マネージャー 祝部 正(1年)
投 手 荒木 昇(3年)    捕 手 佐藤佳正(3年)    一塁手 庄司久司(2年)
二塁手 高橋 勲(1年)    三塁手 森山 勇(3年)    遊撃手 糸賀千秋(3年)
左翼手 長島正治(1年)    中堅手 伊藤幸四郎(2年)   右翼手 大野茂穀(3年)
    手銭善之(1年)   中山敏夫(1年)   服部勝禧(1年)  祝部幸吉(1年)
 東中国大会島根県予選
 春からの戦績は7戦して2勝と好調ではなかった。これは主に選手の病気欠場が原因だった。夏の大会を前にしてようやく復調し、明大中村恒夫選手をコーチに迎え、打線の調整に重点を置いて練習を重ね活躍期待された。
 第36回全国高校野球選手権大会島根県予選は、7月16日から松江市設球場で挙行された。大社は緒戦で邇摩高校と対戦、15安打19得点で7回コールド勝ちして江津工との2回戦に臨んだ。

 2回戦(7月18日、松江市設球場)
江津工 010 201 000 = 4
大 社 000 000 001 = 1

江津工   打 安 失   大 社   打 安 失
H 道 原 5 3 0   F 佐 藤 4 0 0
G 金 山 4 0 0   D 中 山 3 0 3
F 三 浦 4 0 0   三 祝部幸 1 0 0
B 寺 本 3 1 0   G 伊 藤 2 0 0
E 田 平 4 1 1   A 荒 木 3 1 0
C 佐々木 5 1 0   B一手 銭 4 0 0
D 高 橋 5 2 0   @三正 司 3 0 0
@ 宗 近 4 1 0   C 森 山 3 0 0
A 前 田 4 0 0   H 祝部正 1 0 0
              右 大 野 1 0 0
              E 糸 賀 3 0 0

      38 9 1         28 1 3

 江津工は宗近が9三振を奪ったうえ、好調をつたえられる大社打線を1安打に封じるほどの出来栄えで乗ずるスキを与えず、攻めても平凡な正司・手銭両投手を適時に攻略して一方的に大社を降した。江津工の攻撃は二回高橋の左翼線二塁打と宗近の中前タイムリー安打で先行、四回には四球の前田とバントヒットの道原が二死後から三塁手の悪送球と一塁手のボンヘッドに判断良く本塁を陥れ入れて追加点をあげ、六回には右翼線三塁打の道原を金山の二塁ゴロで迎え入れ、最後まで主導権を握って大社を押し切った。ソツのない試合運びに加え、やはり宗近の好投が勝利の原動力だった。大社は宗近の外角低めを通す速球が全く打てず、九回裏荒木の二塁打でどうにか無安打、無得点の記録から免れた
 東中国大会は、米子東が関西に1対0で勝利し7度目の甲子園代表に選ばれた。


昭和30年
昭和30年野球部員写真
(後列左から) 荒木、白石、森山、高橋、竹内、森山、佐藤、小村
(3列左から) 伊藤、長島、三原、庄司、祝部正、中山、手銭、吾郷、服部晃、宇家
(2列左から) 田中部長、中山、竹内、槇原校長、蒲生後援会長、川上、松田
(前列左から) 服部勝、佐藤、高橋勲、高橋卓、炭谷、園山、祝部幸
部 長 田中治雄        コーチ 川上滝郎(監督)    コーチ 松田和彦
主 将 伊藤幸四郎    マネージャー 宇家 勇(1年)
投 手 手銭善之(2年)    捕 手 祝部幸吉(2年)    捕 手 服部勝禧(2年)
捕 手 佐藤治男(1年)    一塁手 庄司久司(2年)    二塁手 長島正治(2年)
三塁手 炭谷尚弘(2年)    遊撃手 中山敏夫(2年)    左翼手 祝部 正(2年)
中堅手 伊藤幸四郎(3年)   右翼手 高橋 勲(2年)
    三原 弘(1年)  若月嘉郎(1年)  高橋卓夫(1年) 園山彰男(1年)
    徳山淳永(1年)  竹内 世(1年)  糸賀美智夫(1年) 岡本東洋男(1年)
 東中国大会
東中国大会入場式(先頭は伊藤主将)
 春季大会の準々決勝で松江工を14対7で八回コールド勝ちし決勝で浜田に9対7と惜敗したものの準優勝という成績であった。
 東中国大会県予選では初戦に優勝候補の大田を破り波に乗り2回戦で平田に1対0、3回戦では浜田を3対1、そして迎えた出雲との決勝戦は7対0と撃破し優勝した。その勢いを持って、第37回全国高校野球選手権大会東中国大会に臨んだ。7月31日午前8時から松江市営球場で熱戦を幕は切って落とされた。島根県からは、開催県として、大社、出雲、浜田、江津工の4校が出場した。大社は開会式後の第一試合で岡山県優勝校の玉島と対戦した。

 玉島(岡山代表)との1回戦
大社 000 000 001 = 1
玉島 000 010 03× = 4

大 社   打 安 得 振 四 犠 盗 失   玉 島   打 安 得 振 四 犠 盗 失
E 中 山 4 0 0 0 0 0 0 1   F 浅 原 3 2 1 0 1 0 1 0
H 三 原 3 0 0 1 0 0 0 0   C 小 田 4 1 0 0 0 0 0 0
打 服 部 1 0 1 0 0 0 0 0   D 岡 本 4 0 0 1 0 0 0 0
C 長 島 4 0 0 0 0 0 0 0   E 高 塚 3 0 0 0 1 0 0 2
G 伊 藤 3 2 0 1 1 0 0 0   @ 大 島 3 1 0 1 0 1 0 0
B 正 司 4 1 0 0 0 0 0 0   A 田 辺 4 1 1 0 0 0 0 1
@ 手 銭 4 0 0 0 0 0 0 0   G 瀬 良 2 0 0 0 0 1 0 0
F 祝 部 3 0 0 1 0 0 0 0   B  林  3 0 0 1 0 0 0 0
打 高 橋 1 0 0 1 0 0 0 0   H 安 原 2 1 2 0 1 0 0 0
D 炭 谷 3 0 0 0 0 0 0 0
A 佐 藤 3 1 0 0 0 0 0 0

      33 4 1 4 1 0 0 1         28 6 4 3 3 2 1 3

 立ち上がり双方とも固くなって打撃が振るわず、予想通りチェンジ・オブ・ペースの玉島大島、大社手銭の投手戦となったが、玉島は後半ようやく手銭の配給に慣れ、打ちごろの内角高めの直球を痛打、五回二死後安原の四球、浅原の二塁打、小田の内野安打で1点を先取、さらに七回田辺の安打、安原・浅原の左翼左を抜く2本の二塁打、敵失などで3点を加えそのまま押し切った。大島投手の球はやや伸びがなかttが、左翼浅原が好プレーを見せ、2本の二塁打を放って攻撃の原動力ともなり、よくこれをカバーした。
 一方大社は九回3本の安打で1点をあげたが及ばなかった。大社はバットを短く握ってこつこつ当て、四回表中前安打に出た伊藤が三塁に進んでいながら続く長島、正司の安打性の当たりを左翼手の好守に阻まれ先取点を逸したのは惜しかった。攻守ともに玉島に一日の長があり、大社は中堅伊藤を中心に力一杯の試合を進めていたから手銭投手が最後までドロップで攻めておればもっと点差が縮まっていただろう。準決勝で島根県勢、鳥取県勢は姿を消し、決勝は玉島と倉敷工の対戦となった。玉島が5対1で倉敷工を降し甲子園の切符を手に入れた。
 大社の主将として中堅を守った伊藤光四郎は卒業後阪神タイガースに入団、37年左打者として俊足好守をかわれて西鉄ライオンズに移り活躍した。

 春季中国大会
 10月15日から行われた秋季県大会、新チームで臨んだ準々決勝で再び強豪大田を3対1で破り、準決勝で松商を8対1の八回コールド勝ち、決勝では出雲に3対1で敗れたが中国大会のコマを進めた。
 第8回中国地区高校野球大会は11月2、3の両日松江市営球場に島根県代表の出雲高、大社高、松江商高、安来高に山口県柳井商工、岡山県岡山東高、広島県広島商高、鳥取県米子南高の8校が参加して開催された。大社高は、1回戦で柳井商工を2対1で破り、準決勝で米子南高に5対3で勝ち、広島商高との甲子園をかけた決勝戦に臨んだ。

 中国地区大会決勝戦(10月3日、松江市営球場)
広島商 101 012 000 = 5
大 社 000 000 000 = 0

広島商   打 安 点 振 四 犠 盗 失   大 社   打 安 点 振 四 犠 盗 失
C 清 水 3 0 1 1 1 0 1 1   C 岡 本 4 1 0 2 0 0 0 1
二 平 田 1 0 0 0 0 0 0 0   F 佐 藤 4 2 0 0 0 0 0 0
D 河 野 4 0 1 1 1 0 1 0   G 長 島 4 0 0 1 0 0 0 0
@ 山 本 4 3 2 0 1 0 0 0   E 中 山 4 2 0 0 0 0 0 0
G 三 戸 5 3 0 0 0 0 0 0   A 服 部 3 0 0 0 0 0 0 0
E 井 上 5 1 0 2 0 0 1 0   一 炭 谷 0 0 0 0 0 0 0 0
A九山 田 3 1 0 0 1 0 2 0   @ 手 銭 3 0 0 0 0 0 0 0
H 益 井 1 0 0 0 0 0 0 0   B二祝 部 3 1 0 1 0 0 0 0
B 木 村 4 0 0 0 1 0 0 0   D 糸 賀 3 0 0 2 0 0 0 2
右 橋 本 2 0 0 2 0 0 0 0   H 三 原 3 0 0 0 0 0 0 0
右 迫 田 2 0 0 1 0 0 0 0
捕 沓 内 0 0 0 0 0 0 0 0
F 平 本 3 1 1 0 1 0 1 0

      37 9 5 7 6 0 6 1         31 6 0 6 0 0 0 3

 決勝は、一試合ごとに自信をつけて調子をあげてきた大社と、延長十二回の激戦の後、わずか1時間足らずの休養しかとられなかった名門広島商が顔を合わせた。大社は手銭の連投、広島商は十二回を投げ抜いた上土井を休ませエースの左腕山本一義を起用した。こうした勝ち抜きの1本勝負では力量の相似た2人の投手を持つことは実に有利である。連投の手銭が回を追うごとに投球に疲労の色が現れ準決勝の対米子南戦のようなスピードが見られなくなったのに対し、広島商の山本は余裕のあるピッチングでシュートと切れの良いカーブで内外角の低目を入念に攻めた。
 一回広島商は二死後から山本が左中間深く三塁打し、続く三戸が真中高目の球をすかさず中越二塁打して1点を先取、三、五回にも三戸が再度左前に痛烈なタイムリーを放って1点ずつあげ、六回には平本の死球を足場に三塁手、二塁手の敵失で労せずして2点を加え試合を決めたのである。
 決勝というにはあまりにもあっけない勝負の決まりようであったが、これも一つに力量の差。広島商は豊富な練習量をその攻守に存分に発揮して試合を自らのペースに乗せて暴れまくった。力及ばず敗れはしたが大社はよく頑張った。手銭投手を中心にがっちりまとまり最後まで試合を捨てずねばり抜いたが、広島商の好守備にはばまれて遂に1点も返せなかった、しかし佐藤の好打、中山の好守、好打は極めて印象的だった。
 広島商の山本一義は、後に広島カープに入団して活躍、現役引退後ロッテの監督に就任するなど長くプロ野球界に貢献している。

 対広島商戦余話
 大社は準決勝の第一試合だったので、試合終わって旅館に帰り昼食をとった後、午後の決勝に備えて休養をとっていた。一方広島商は岡山東と十二回も戦った上、汽車の時間もあり、ベンチでパンの昼食をとり、短時間の休憩で優勝戦に臨むことになった。
 午後になって、急に天候が悪くなり気温も下がってきた。大社は試合前旅館から出たが、この気温の差に慣れないうちに試合に臨むことにあんり、特に手銭投手のウォーミングアップの不足もあって、前日並みに当日朝にみせた快心の投球はみられず、予想外の試合内容となった。
 大社は休み過ぎ、広島商は延長試合を戦ったとはいえ、コンディションは却って良かったわけで、選手のコンディションの調整、管理の重要性が痛感された一戦だった。
 特に選抜大会につながる一戦でもあったので、接近した試合内容であるかまたは優勝戦が翌日に行われていたならば、あるいは異なった結果が生まれていたのではないかと惜しまれる。


昭和31年
昭和31年野球部員写真
(後列左から) 竹内、山崎、北井、吾郷、松田、中山、北井、槇原校長、高橋教頭、田中部長
(中列左から) 藤井、森、一人おいて奈良井、千家管長、恒松知事、榊原コーチ、中島、多田、山根
(前列左から) 宇家、中山、三原、祝部、若月、手銭、服部、長島、兵庫、糸賀、高橋、徳山、金田、松尾、広戸、佐藤、祝部正
部 長 田中治雄        コーチ 川上滝郎(監督)  松田和彦  榊原敏一(慶応)
主 将 服部勝禧     マネージャー 宇家 勇(2年)
投 手 手銭善之(3年)    投 手 若月嘉郎(3年)    投 手 服部勝禧(3年)
一塁手 祝部幸吉(3年)    一塁手 炭谷尚弘(3年)    二塁手 高橋卓夫(3年)
二塁手 兵庫修吉(1年)    三塁手 糸賀美智夫(2年)   遊撃手 中山敏夫(3年)
左翼手 佐藤治男(2年)    中堅手 長島正治(3年)    右翼手 三原 弘(2年)
 松尾繁樹(1年) 広戸剣次(1年) 徳山淳永(2年) 金田定春(2年) 吉原 紀(1年)
 東中国大会島根県予選
 第38回全国高校野球選手権大会島根予選は、7月22日から4日間新装なった出雲市営球場で挙行された。春のメンバーから炭谷が抜け、金田定春が補欠となった。慶応榊原選手をコーチに迎えて大会に臨んだ。前年度優勝校大社から優勝旗の返還があり、大社服部主将が宣誓して幕が切って落とされた。大社は1回戦で邇摩を3対おの完封勝ちして準決勝で松江工と対戦した。

 準決勝(7月24日、午後1時51分プレーボール)
大 社 000 000 000 = 0
松江工 100 100 01× = 3

松江工   打 安 失    大 社   打 安 失
B 田 中 3 0 0    G 三 原 3 1 0
@九伊 東 4 1 0    D 糸 賀 3 0 1
G 渡 部 3 1 0    F 佐 藤 3 0 0
D 池 田 3 0 0    E 中 山 4 1 0
F 青 戸 4 2 0    B 祝 部 4 3 0
A 佐 藤 4 0 0    H 手 銭 3 0 0
H 荻 野 2 1 0    A 広 戸 4 0 0
投 西 尾 2 0 0    @ 若 月 3 0 0
C 川 島 3 0 1    C 兵 庫 4 1 0
E 越 野 3 1 1

      31 6 2          31 6 1

 打力を上げた松江工は立ち上がりの悪い大社若月投手を攻めて一回四球、死球、盗塁、野選で1点を先取、四回には青戸、荻野の安打などで1点を追加、八回にも青戸のフェンスぎりぎりの本塁打でダメ押しの1点をあげた。一方大社の打線は伊東投手の悪球に手を出して凡打に倒れ、いずれもチャンスをつぶしていたが、五回代わった西尾投手にも毎回走者を出して攻めつけながらうまいピッチングに攻撃をそらされ、無得点に終わった。七回西尾の投球が荒れて一死満塁と反撃のチャンスをつかんだが無為に終わり、八回の無死一、二塁もバントを失敗してついに得点することが出来なかった。最後までねばりにねばった大社も主将服部捕手、長島中堅手の中心選手を欠いた苦しい布陣ではとても勝味はなかった。
 この大会が行われた出雲市営球場の吾郷千代美管理人は大変な野球狂で、戦前大社中学が甲子園に出場した時、2度も自転車応援に出かけ、その度に会社を首になりかけたという。

 思い出
高校9期選手 手銭善之

 昭和6年に甲子園に出場以来久し振りに県予優勝の栄冠―これは昭和30年7月26日の新聞の書き出しの一節である。
 多くの先輩または後輩等により大社高校野球部の金字塔の如く打ち建てられいる現在、取るに足らない県優勝などしか持ち合わせないわれわれ9期生にとっては恥ずかしい限りである。したがって思い出といえば焼けつくような炎天下猛練習に明け暮れた日々と、前記した優勝のみであるが、その中から二、三のエピソードを記して当時を偲びたい。
 ” おーい早く乗れ ” 先輩の声も弾んでいる。優勝旗を手にした伊藤光四郎主将を先頭に浜田駅から汽車に乗り込む。ところが変なヤツが一人いた。窓から大きな尻を出してもがいている。あまりの嬉しさに窓から飛び込んだ1年生の三原だ。案の定、川上監督に大目玉をくらったが、今もなお語り草にされる一席である。
 大社駅に汽車が滑り込んだ。凄い人波である。われわれの歓迎と聞き目を丸くする。おそ恐る恐る歓迎陣の前に並ぶ。町長を始め諸氏のスピーチが続く。小生はふと気づくと同輩たちがいないのである。「あのう大社高校野球部の者ですが、皆はどこにいますか。」と前の人に聞いたら凄い声で怒鳴られ、退くんだ退くんだ。そぎゃん所におると車にはねらえぞ。」である。仕方がないので人波を縫って暫く探したが見当たらない。” えーい、このまま帰宅して寝てやれ ” と歩き出したところ、頭の上から大声がとんできて「手銭なにしちょら、早く乗れ」とトラックに引っ張り上げられた。そこでやっと優勝パレードがなされているのを知った次第である。
 生まれて初めての感激にいささか酔った感じであったが、小生の生涯に消え去ることのない思い出である。
 この優勝を機にわれわれは自信を得、春の選抜を決める秋季大会には中国大会の決勝戦まで駒を進め、広島商業と相対し敗れはしたが、甲子園出場を賭けて戦ったのも懐かしい思い出である。
 しかし野球部生活の中で小生の胸に何よりも深く刻み込まれている思い出といえば3年の春、投球フォームを崩して悩み苦しんだことだ。
 それこそ死者狂いで練習に励んだのであるが・・・。夜床の中で自分のフォームを頭の中に描いてみる、いや描こうとする。しかしいくらあせっても描くことが出来ないのである。
 真夜中、川上監督の踏む自転車のライトを頼りにバックネットへボールを投げ続けた。しかしカムバックならず悔しさに泣いたのであるが・・・。しかしこの大社高校野球部生活において培われた貴重な体験は社会に出た今日、人の域を脱するなにものも持ち合わせない小生にとって誇ることの出来る唯一のものである。
 学生野球の真髄を守り続けるわれわれの母校大社高校が今後ますます発展されんことを祈りたい。


昭和32年
昭和32年野球部員写真
(後列左から) 森山、白石、松田監督、原、北井、椿、高橋、竹内
(3列左から) 春日、今岡、和田、奈良井、中島県会議長、恒松知事、矢野校長、千家管長、山根、森、竹内
(2列左から) 加藤部長、吉原、北井、佐藤、兵庫、四方田、松尾、糸賀、藤井、広戸
(前列左から) 三原、山崎、岡田、妹尾、荒木、加藤、佐野、杉谷、藤間、徳山
部 長 加藤長之助   監 督 松田和彦  主 将 三原 弘  マネージャー 藤江元芳(2年)
投 手 藤井 弘(1年)    捕 手 山ア恭一(1年)    一塁手 広戸剣次(2年)
二塁手 兵庫修吉(2年)    三塁手 松尾繁樹(2年)    遊撃手 糸賀美智夫(3年)
左翼手 佐藤治男(3年)    中堅手 三原 弘(3年)    右翼手 吉原 紀(2年)
    徳山淳永(3年)  小田川博信(2年)  妹尾俊男(2年)   加藤 卓(1年)
    藤間 勲(1年)  佐野邦夫(1年)   四方田 秀(1年)  荒木勝則(1年)
 東中国大会
 この年新たに松田和彦先輩を監督に迎え、また前年度県下中学校野球で優勝し、その実力随一を誇った藤井、山崎の1年生バッテリーの入部を得て陣容を立て直した。
 東中国大会島根県予選は、7月20日から松江市営球場で開催された。大社高校は、若い山崎捕手をベテランの広戸にかえ、一塁に藤間を入れてこの大会に臨んだ。1回戦で松江に3対0、準々決勝で浜田水に5対1で快勝、準決勝では津和野に2対1で辛勝し東中国地区大会の出場権を得た。決勝戦は松江商と戦い4対3で敗れるも準優勝という栄誉を得てh菓子中国大会へとコマを進めた。
 全国高校野球東中国大会は、8月1日から岡山県倉敷市営球場で、岡山東商、倉敷工、玉島、笠岡商工(以上岡山)、大社、松江商(島根)、米子東、米子南(鳥取)の各県代表8校が参加して開催された。

 一回戦 第四試合 (8月1日)
笠岡商工 000 200 000 = 2
大  社 000 000 000 = 0

笠 岡   打 安 点 失   大 社   打 安 点 失
E 小 寺 3 1 0 0   C 兵 庫 3 0 0 1
G 室 野 4 1 0 0   E 糸 賀 3 0 0 0
D 寺 岡 3 0 0 0   F 佐 藤 4 1 0 0
B 三 宅 4 1 0 0   G 三 原 4 0 0 0
@ 山 本 4 2 0 0   @ 藤 井 3 1 0 1
F 畝 山 2 1 1 0   A 広 戸 2 0 0 0
C 佐 藤 3 0 0 0   B 佐 野 2 0 0 0
H 冨 田 3 0 0 0   H 吉 原 3 0 0 0
A 斎 藤 3 0 0 0   D 松 尾 3 0 0 0

      29 6 1 0         27 2 0 2

 山本・藤井両投手ともによく投げ、投手戦の経過をたどったが、わずかに山本の投手力が上回っていた。大社打線は左投手の山本を打ち込めず、特に時折まじえるドロップに全然手がでないというもろさをばくろ、三塁を踏んだのは五回に一度だけという貧打では到底勝味はなかった。笠岡は四回一死後三宅・山本の連続安打と藤井の暴投で1点、さらに畝山の意表をつくスリーバント成功で計2点を上げ、10三振を奪う山本の好投で逃げ切った。


 決 意
昭和32年度部長 加藤長之助

 不振であった野球部に有力な新人群が入学してきた。県下中学野球で優勝した大社中学の藤井、山崎、佐野、藤間、北井等であった。監督に松田和彦君、主将は三原にした。
 私は4月中旬に一同を教室に集め、夏季大会には中国大会に出場するよう頑張りたい旨を訓示した。監督以下選手たちは無理であるといったが、必ず達成できると頑張ったのである。当時道具は皆無であった。ひどいものであった。物心両面の再出発を強く決意した。そして選手たちの健康と栄養に最大の注意を払った。日没まで監視したのである。選手は三原、佐藤、糸賀、兵庫、広戸、吉原等に新人を加えたもので頑張り通した。春の大会、練習試合、夏の大会を通して37戦32勝1引き分けぐらいだったと思う。そのうち、同じ中国大会に出場した米子ひがしに2度とも快勝した。待望の中国大会に島根県代表として、松江商とともに倉敷球場に出場した。1年生の藤井投手の怪腕は県下は勿論中国大会でも高く評価された。
 倉敷大会では笠岡商工に2−0でエラーで惜敗した。秋の県大会は兵庫が主将で、決勝は浜田と対戦し六回まで2−0でリードしていたが、捕手山崎の落球から次に安打され逆転負けをしたのは痛恨の極みであった。選手たちは、なせばなるの旺盛な精神で団結し、技術以上の力を発揮したので、実に愉快であった。決意が強ければ成し遂げられるものである。
 当時学校内部が不愉快な空気に包まれ、一致協力の精神に欠け、野球部援助の方向になく、随分と苦労した。学校、生徒の応援もなく、選手を出迎える者もない有様であった。この年後援会の部落別寄付組織が強化されたが、寄付金は20万円くらいであった。
 学校長以下の野球部に対する態度が不可解であり、憤激にたえなかったので、選手たちは可哀想であったが、私は転勤を決意して翌年4月には転勤したのであり、さわあれ大社高校野球部に対する愛着は断ち難く、その後側面から常に応援していた。
 野球部が強くなるのは学校、職員、選手、後援会等の一致団結が最も必要である。


昭和33年
昭和33年野球部員写真
(後列左から) 広戸、兵庫兄、松尾、藤江、妹尾
(中列左から) 山ア、加藤、四方田、藤井、佐野、藤間
(前列左から) 北井、兵庫、大国、中筋、松田監督
部 長 松井春吉        監 督 松田和彦      コーチ桜井寅二(慶応出)
主 将 兵庫修吉     マネージャー 藤江元芳(3年)
投 手 藤井 弘(2年)    捕 手 山ア恭一(2年)    一塁手 藤間 勲(2年)
二塁手 兵庫修吉(3年)    三塁手 佐野邦夫(2年)    遊撃手 松尾繁樹(3年)
左翼手 芳原 紀(3年)    中堅手 北井宏弥(2年)    右翼手 広戸剣次(3年)
   四方田 秀(2年) 妹尾敏男(3年) 加藤邦吉(2年) 中筋和美(1年) 大国 昭(1年)
 全国高校野球島根県大会
 5月の春季選手権大会でシーズンの幕があけられたが、この年から大東高校が新しく参加した。
 大社は昨年の新人戦で浜田高校に敗れはしたが、新入部員を加えて投打ともに安定し、優勝候補の最右翼にあげられていた。
 この年の全国高校野球選手権大会は、第40回記念大会で甲子園大会の大優勝旗が新調され、そして全国46都道府県に沖縄からも代表が参加するという文字通りの全国大会として行われることになった。舞台となる球場も、甲子園球場に加え西宮球場も使用される。予選参加校も昨年の1769校から1807校となった。
 島根県大会に出場した大社は、藤井投手が右背中の肋骨にヒビが入りマウンドを退いたため戦力に大きく影響したが、一方このことが藤間・大国投手の成長と内外野の守備に進境をもたらした。更に1番から6番までが3割近い打率をあげ、どこからでも打てる攻撃力を持って、1県1校の代表権をめぐって大いに期待され、2回戦の益田との対戦に臨んだ。

 2回戦(7月23日)
大 社 010 000 002 00 = 3
益 田 000 200 001 0 1× = 4

大 社   打 安 点 失  益 田   打 安 点 失
C 兵 庫 5 2 0 0  F 磯 辺 4 0 0 0
E 松 尾 4 0 0 0  E 三 輪 2 1 0 1
D 佐 野 4 0 0 0  B投小 野 4 1 0 1
F 広 戸 5 0 0 1  D 山 本 2 2 0 0
B投一藤井 4 2 0 1  G 中 川 3 0 0 0
@ 藤 間 2 0 0 0  三 佐 藤 2 2 2 0
打 中 筋 1 0 0 0  A 久保田 4 1 1 0
三投大 国 1 0 0 0  C 岡 崎 4 0 0 0
H 吉 原 4 1 1 0  @ 岩 本 3 0 0 0
A 四方田 2 0 0 0  左 岡 田 1 0 0 0
捕 山 崎 3 1 1 0  H 島 田 3 0 0 0
G 北 井 4 0 0 0
A 山 崎 3 1 0 0

      38 6 2 3        32 7 3 2

 力量互角の両チームの対戦は試合内容も豊富で3対3のまま双方譲らず延長線となったが、投手力にまさる益田が十一回裏藤井・大国投手を打ち込みさよなら勝ちを演じた。大社は二回藤井の内野安打と吉原の適時打で1点を先取した。しかし益田は四回2死球と久保田の適時打それに敵失により逆転、そのまま勝敗は決まったかに見えたが、大社は九回二死後安打と敵失で逆転した。ところがこの回から代わった藤井に球威がなく益田は二死のち代打佐藤の二塁打で逆転した。延長に入って益田は小野を立て、大社打線をおさえ十一回裏一死後三輪・小野が適時打して藤井をマウンドからおろし、代わった大国から四球と続く佐藤の適時打で逆転した。


昭和34年
昭和34年野球部員写真
(後列左から) 藤間、北井、四方田、佐野
(前列左から) 山ア、北井監督、藤井
部 長 松井春吉        監 督 北井善衛        コーチ 山下 博(立教)
主 将 藤井 弘     マネージャー 小池宜行(2年)
投 手 藤井 弘(3年)    捕 手 山ア恭一(3年)    一塁手 藤間 勲(3年)
二塁手 中筋和美(2年)    三塁手 佐野邦夫(3年)    遊撃手 若月宏之(1年)
左翼手 四方田 秀(3年)   中堅手 北井宏弥(3年)    右翼手 山ア登由(1年)
    大国 昭(2年)   森山 明(2年)   山本佳正(2年)  千家敬麿(1年)
   祝部豊久(1年) 松田 武(1年) 持田紘治(1年) 森山信雄(1年) 高畑忠善(1年)
 西中国大会島根県予選
 第41回全国高校野球島根県予選は、大田市民球場で7月21日から6日間、農大付属・三刀屋・川本の初参加チームを加え20校が参加して開催された。
 大社高校は、この大会のために立教大学の山下博選手をコーチに迎え、暑さもいとわず猛練習を重ね、優勝候補の筆頭にあげられていた。
 この年から島根・山口2県による西中国大会と予選地区が改められた。
 大社は、1回戦平田を6対0、2回戦津和野を延長10回6対3で下し、3回戦益田産には2対1の僅差で勝利し、大田高校との準決勝に臨んだ。7月25日大田市民球場で球史に残る1戦の幕が切って落とされた。

 準決勝 対大田高校(7月25日、大田市民球場)

大 田 000 000 000 000 00(延長14回表日没ドロンゲーム)
大 社 000 000 000 000 0

 大田高校木下監督の審判に対する判定に執拗な抗議は40分に及び日没ドロンゲ−ムとなり翌日再試合となった。翌日、大社高校に対し<放棄試合>を宣告されようとは誰も予想しえなかった。大社高校には、12月31日までの対外試合禁止。大田高校には、翌年の8月31日までの対外試合禁止となった。



 放棄試合秘話
中山敏三

 7月31日佐伯高野連副会長が調査に来県され、矢野校長に中山理事が同行して松江高校に出かけた。当日の出席者は佐伯副会長、佐藤朝日新聞松江支局長、木島高野連会長、久保理事長、森井審判、岡審判員、大田松本校長、大社矢野校長、中山理事、それに松江高校志岐校長で、新聞・放送関係者の入室を禁じられた。
 木島会長の挨拶があり、森井審判から試合経過、放棄試合に至るまでの説明があった。
 佐伯副会長は2人の説明が終わると松本大田校長に対し
1、もし私が大田校長なれば木下監督はグラウンド上にて首にする
2、あなたは出場を辞退する気はありませんか
3、この上甲子園に出て汚名を天下にさらす気なのか
 以上、三ヶ条のことを言われたが、一言の返す言葉もなく、額から汗を流し苦しい顔つきであった。
 第一回の西中国大会当日は島根県優勝校の大田高校と山口県優勝校の宇部工高が対戦、13対0にて大田高校が大勝、凱歌は球場南隣の松江高校にも響き渡っていた。
 佐伯副会長は松本校長が無言のままなので、朝日支局長と退席され、その際大社高校に明日行き選手を慰めてやりたいと言われた。
 玄関に見送った折り、志岐松江校長も真相を知り、松本校長に甲子園出場は辞退すべきだと申された。報道関係者も会議の内容を探ったが、秘密会議のため漏れなかった。審判団からも甲子園出場辞退を申し入れたようだが、松本校長は木下監督を除外して出場することに全力を尽くした。


 野球部選手生活の思い出
昭和34年度主将 藤井 弘

 高校を卒業してから数年の歳月が過ぎ去った今、僕等にとって悪夢のような高校野球生活における対大田高校戦の放棄試合のことを思い出しながらこうしてペンをとっている気持ちはあの事件の当事者たるわれわれではなくては解からないであろう。文章にはとうてい書き表すことの出来ない残念な、また悲しい思い出である。われわれ高校時代の同輩、北井、佐野、山崎、四方田は今各々進むべき道を進み、それぞれの場で活躍しているが、何時何処でもあの高校時代の出来事は彼等の脳裏から離れることはないだろう。いや同輩だけではなくわが大社高校の野球部を愛しているすべての胸の内に果てることもなく残っていることと思う。
 今高校時代の野球生活を振り返っての思い出は何かと聞かれると、あの大田高校との放棄試合という余りにも大きな思い出が心の中に居座っており、その他の思い出は思い出すのに困難なことである。いきおい高校野球生活の思い出となるとあの夏の県大会における大田高校との放棄試合のことに尽きることを許していただきたい。
 連日高校球児の夢である甲子園出場を目指して練習に励んできたわれわれに対して最後の宣告は、無残にも甲子園への道を断つのは勿論のこと、われわれの純粋な気持ちをも打ち砕くような大きな出来事でした。当時は何かにつけあの放棄試合のことが嫌な物として思い出されてきたものだが、今は甲子園に出場しただれよりも心に残るよい思い出を作ったんだという気持ちを持っている。いまひとつわれわれが甲子園出場という大きな厚いトビラを全力を尽くして後輩諸氏たちのために開いてやったんだという自分勝手な自己満足も持っている。こんなことを言ったら栄えある甲子園出場を果たし得なかった先輩の愚痴だと思って聞き流していただきたい。いまひとつこの紙上をかりて放棄試合を通じて深く痛感したことを書かせていただきなら、清純な高校野球といっても、所詮勝負事は勝たねば何にもならないということだ。高野連の佐伯副会長があの放棄試合の後、わが母校にきていわれた、「高校野球は勝間家は問題じゃない。」ということばは、雨の日も風の日も、また暑い炎天下においても一日たりとも休むことなく練習に明け暮れる、そういうことを通じて何事にも負けない強い精神を養うという高校野球生活が一つの目的を持っていることは確かなことだろう。でも終局の目的は勝負に勝つこと以外に何物もないということだ。今後あのような高校野球にあるまじき出来事が再び起こるとすれば、いや2度と起こしてもらっては困る問題だが、その時われわれの時をよい教訓として生かしていただければ、無念の涙を飲んだわれわれとしては心の慰めとなると思っている。


昭和35年
昭和35年野球部員写真
松江商を1安打に抑え2−0で破り西中国大会出場権得た直後の写真(松江市営球場) 
部 長 中 和夫        監 督 北井善衛        コーチ 青野修三(立教)
主 将 中筋和美      マネジャー 大国 正(3年)
投 手 若月宏之(2年)    捕 手 森山 明(3年)    捕 手 千家敬麿(2年)
一塁手 祝部豊久(2年)    二塁手 松田 武(2年)    三塁手 山ア登由(2年)
遊撃手 山本佳正(3年)    遊撃手 持田紘治(2年)    左翼手 大国 昭(3年)
中堅手 中筋和美(3年)    右翼手 高畑忠善(2年)
    飯塚 孝(2年)        森山信雄(2年)        岡田公志(1年)
 西中国大会
 昨年大田球場における夏の大会でのトレブルのため、半年間にわたる対外試合禁止の空白を取り戻すべく、中和夫教諭が部長に就任し、4月14日新入部員歓迎会を開き全員その決意を新たにした。そして、4月18日昨年の責任を負って辞任した北井監督を再び迎えることが決まり、遊撃の若月を投手にコンバートした新しいチームが出発した。
 新チームは、名誉挽回の意気に燃え他校との練習試合に6連勝、その勢いで出雲地区大会を制した。西中国大会県予選の1回戦で津和野に9対2の七回コールド勝ち、2回戦で松江工に10対1の八回コールドで下し、準々決勝で安来に7対1の圧勝、準決勝戦では松江商を2対0で完封し西中国大会へとモマを進めた。
 甲子園出場代表を決定する西中国大会は、7月30、31日の両日、宇部市営球場において島根代表の大社、出雲商、山口代表の柳井、岩国商の4校が出場して開催された。
 大社は第一試合で柳井を6対3で破り、翌31日岩国商との決勝戦に臨んだ。

 決勝戦(7月31日、宇部市営球場)
大 社 012 000 000 = 3
岩国商 000 020 000 = 2
▽三塁打 赤木 ▽二塁打 森山、千家 ▽併殺 大社1 ▽残塁 大社5 岩国商5

大 社   打 得 安 点 振 四 犠 盗 失   岩国商   打 得 安 点 振 四 犠 盗 失
G 中 筋 3 1 1 0 1 1 0 0 0   D 住 森 4 0 2 1 0 0 0 0 0
F 高 畑 3 0 0 0 1 1 0 0 0   B 十 時 3 0 0 0 0 0 1 1 0
D 山 崎 4 1 1 1 1 0 0 1 0   F 黒 石 4 0 0 1 0 0 0 0 1
A 森 山 4 0 3 1 0 0 0 0 0   A 佐 藤 3 0 1 0 1 1 0 1 0
@ 若 月 2 0 0 0 0 1 1 0 0   @ 森 原 4 0 0 0 1 0 0 0 0
B 祝 部 4 1 0 0 1 0 0 0 0   E 竹 元 4 0 0 0 0 0 0 0 0
H 千 家 4 0 1 1 0 0 0 0 0   H 岩 田 4 0 0 0 0 0 0 0 0
C 松 田 4 0 0 0 1 0 0 0 0   C 中 村 1 1 0 0 0 2 0 0 0
E 持 田 3 0 0 0 0 0 0 0 1   G 赤 木 3 1 1 1 0 0 0 0 0

      31 3 6 3 5 3 1 1 1         30 2 4 2 2 3 1 2 1

 甲子園出場をかけた優勝戦にふさわしい熱戦だった。森原も優勝投手若月に劣らずよく投げて、四回以降は大社を1安打に押える力投。試合は二、三回にあげた3点と岩国商が五回に赤木の三塁打と住森の安打で2点を報い、1点差に迫ったまま息詰まる投手戦を繰り広げた。結局、前半わずかに打ち勝った大社が先制の得点機を確実につかん勝った。それにしても大社の二、三回の攻撃は足を生かして長打力に結びつけたみごたな攻撃だった。
 両軍一回の攻撃はまず大社がトップの中筋四球に出たが、ヒット・エンド・ラン失敗で二塁に刺され、高畑・山崎が連続三振して逸機。
 岩国商も住森が無死で一、二塁間をゴロで破るヒットに出たが、後続なく互角のスタートだった。ところが大社の打棒は立ち上がりやや制球に乱れる森原を打ち込んだ。二回無死で4番森山が右前安打、若月の送りバントで二進したが、祝部の投前バントで二塁を飛び出して刺された。しかし、大社は二死後から千家が左翼線に二塁打して祝部が生還、貴重な先制点をあげた。
 三回表にも大社は一死から中筋が三塁頭上を破る左前安打を放ち、黒石左翼手が後逸する間に一挙三塁を奪いチャンスをつかんだ。高畑とのスクイズを見破られ、あやうく中筋が三塁に生きたあと、山崎が殊勲の三塁間安打を放ち、中筋を迎え入れた。山崎はすぐ二盗、森山の左前安打でこの回2点を奪い、試合を決定づけた。この回の大社は足を生かした積極戦法で、ことごとく作戦が図に当たった。
 これに対し岩国商は、五回の裏8番中村が遊失で生き、赤木の左中間大三塁打で生還、続く住森が二遊間をゴロで抜き2点を返した。なお二死二塁のチャンスが続いたが、黒石三塁ゴロでこの回1点差に詰め寄っただけで後続を断ち切られた。岩国商としては森原が立ち直った四回からは大社を殆ど三者凡退に打ち取っていただけに全く惜しい逸機だった。
 大社はへいきんした投、打、走の総合力を十分に生かした。特に外野陣の好守が光った。三回の岩国商赤木の大きなレフトフライを好捕した高畑左翼手、四回の竹元の左中間を抜くような大フライをバックしながら後ろ向きにとった中筋中堅手のファインプレーなど印象に残る好プレーで若月をよく助けた。
 この勝利により、昭和6年以来、実に29年振りに通算4度目の甲子園出場が決定した。



 甲子園出場の感激
昭和35年度主将 中筋和美

 紺碧の空に緩く舞い上がった白球、優勝戦の岩国商業の最後の打球は僕にグラブに静かに入った。勝った、とうとうやったぞ優勝!飛び上がるベンチ、歓声をあげて旗を振る応援団、われわれは体を抱きあって喜んだ。どの顔を鮮やかな笑顔でした。北井監督の体は二転三転宙に舞う。だれもが目指す憧れの甲子園、今われわれはその栄誉を勝ち得たのだーー。
 思えばわが新チームのスタートは惨めであった。あのトラブルの制裁として半年間一切の対外試合を禁ぜられ、早速にある秋季大会に出場出来なかったのです。この半年間、われわれは何となく見放された孤独なチームでした。監督がいなかったのも特にそんな感じを強めたと思う。こんな状態を皆一丸となって「おれたちだけでやるんだ」という意欲と研究で頑張りぬき、練習も例年以上にやりました。
 新春を迎え、長かった制裁期間も終わり、再び北井監督を迎えてわれわれもやっと一人前のチームとなり、みんなの顔に明るさがよみがえってきました。やっと試合が出来る。この時ほど暖かくなるのを待ち遠しく思ったことはありません。夏の大会までは立派なものではなく新聞はBとかC級と予想していたが、われわれは相当やれる自信がありました。けが人もなくベストの状態で試合に臨み、第一、第二試合と戦っていくうちに相手が恐いとか敗けるとかいう気は毛頭なく、全く勢いに乗ってきた。どこにも完勝で県代表となったが、中でも代表を決める松江商戦が最も充実した試合でした。西中国予選もその調子を持続して柳井高、優勝戦の岩国商戦に勝ったが、流石に県予選では感じなかった恐さがあり、常にリードしていても追いつかれそうで早く試合が終わってくれと祈っていたほどです。
 29年振り、四度目の甲子園出場が今ここに実現したのです。これもすべて立派な指導者と町民の暖かい後援に恵まれたこの素晴らしい環境のおかげだと思います。今は亡き竹内さん、高橋先生、西倉先輩には特に親しく指導を受けていたので誰にもまして喜んでいただきました。
 いよいよ全国大会の入場式が始まった。10数万の瞳が見守るなかを西中国代表としてあの黒い柔らかな土、鮮やかな緑の芝草を踏んで一歩一歩力強く行進した時、何とも言えない幸福と感激に胸はいっぱいになりました。われわれが相対した静岡高校は精錬された都会的チームでした。石田投手は2年でしたが、切れのよいシュートを持つコントロールの素晴らしい投手でした。われわれがついに打てなかったは、このシュートの威力によるものです。今大会では優勝した法政二高の柴田投手に次ぐ名投手といわれたほどです。
 異常な雰囲気の中で、われわれは特に堅くなっていたと思われます。終始静岡ペースで何も施すことなくあっという間に試合が終わってしまい、ものたりなく感じました。
 静岡高校は決勝戦まで勝ち進んだチームだけに最初に当たったのは不運でしたが、この強豪に対し善戦したのだから悔いはありません。



Kinki Inasakai