大社高校野球部アーカイブ

放 棄 試 合

第41回全国高校野球島根県予選が大田市民球場で行われ、昭和34年7月25日事実上の優勝戦といわれた大社高対大田高の準決勝戦で、高校野球史上に残る事件が起きた。双方譲らず0対0で延長戦に入り、大社高が迎えた14回裏の無死2、3塁のチャンスにバンドした打者のセーフ判定に大田高監督が規則違反の猛抗議をした。抗議は延々と続き、審判の不手際もあり遂には日没ドロンゲームとなった。翌日再試合となり、試合再開協議中に審判団は大社高に対し「放棄試合」を宣し、大田高の9−0(放棄試合の規程)の勝ちとした。
放棄試合が起きた大田市民球場の写真

紛争事件の起こった日の大田市民球場(7月25日)

   
紛争事件(放棄試合)が起きるまでの戦績

 第41回全国高校野球島根県予選大会は、大田市民球場で昭和34年7月21日から6日間の予定で県下20校が参加して挙行された。
 大社高校は、この大会のため立教大学の山下博選手をコーチに迎え暑さもいとわず猛練習を重ね、優勝候補の筆頭にあげられていた。
 この年から島根・山口による西中国大会と予選地区が改められた。

1回戦(7月21日)
大 社 000 100 050 = 6
平 田 000 000 000 = 0
    ▽3塁打=藤井、若月(大社) ▽2塁打=藤井(大社) ▽併殺=大社、平田各1

【評】 平田高校の1年生投手倉橋は7回までアウトコース低目のシュートにインドロを織り混ぜて大社を1点に押さえる好投を示したが、8回に力尽きて大社の猛打に屈した。この回大社は中前安打の佐野が藤井の3塁打でまず1点、北井のスクイズバンドは野選となって藤井還り、藤間が四球、若月の3塁打、代打森山の犠打と続いて一挙5点をあげた。
 大社は先発藤井が重い直球とドロップで8回まで平田打線を完封。最終回2つの四球を与えて藤間にかわったが、このリレーで平田を無安打、無得点に抑えた。平田の選球眼も荒かった。

2回戦(7月23日)
大 社 011 010 000 3 = 6
津和野 110 000 010 0 = 3
    ▽2塁打=中筋、藤井(大社)松崎(津和野) ▽併殺=大社2 ▽暴投=藤井(大社)大石(津和野)
【評】 津和野は大石、倉水の継投で互角にたたかい、大会初の延長戦に持ち込んだが、10回大社のバンド作内野手の守備を乱されて敗れた。大社は藤間投手の立ち上がりが悪く1、2回に1点ずつとられ、8回代わった藤井も1点を献じた。打っては倉水に抑えられたというより藤井以外の打者に当たりが出ず、9回までは津和野と同数の5安打だった。しかし、10回表、無死藤井の2塁打をきっかけに野選、敵失、スクイズなどで3点をあげ、ようやくお家芸の試合運びのうまいところをみせて押し切った。

3回戦(7月24日)
益田産 000 001 000 = 1
大 社 001 010 000 = 2
    ▽併殺=益田産1
【評】 益田産高はアンダースロー城市を立て、安打も大社と同数の4本を打って譲らぬ健闘をして惜敗した。大社は3回2死後中筋が四球で出たあと2盗、北井の2塁越え安打で還り先制の1点をあげた。5回にも2死後若月の遊撃強襲安打、中筋四球、期待が中前にクリーンヒットを放ち、若月が還り1点を加えた。
 1、2回戦であたらなかった北井はこの日2点を一人でたたき出す殊勲者となった。一方益田産高は6回1死後片山、宮崎と2つの四球が続き、5番島田は3塁強襲安打で片山をけして1点を報いたが、好調の大社藤井に11個の三振を奪われて打線を押えられた。それにしても、3回表益田産高は、四球で出た佐々井を城市が送り、杉内中飛で2死となったが、梅谷の左前安打を左翼手四方田が好返球し、佐々井はホームをつけず、梅谷が2塁へ走って捕手の送球に刺されたのは、続く打順が良いだけに惜しまれた。
昭和34年野球部3年生の写真
昭和34年野球部3年生
(後列左から)藤間 勲  北井 宏弥  四方田 秀  佐野 邦夫
(前列左から) 山崎 恭一   北井 善衛監督     藤井 弘
  準決勝(7月25日)
大 田 000 000 000 000 00
大 社 000 000 000 000 0    (日没ドロンゲーム)
【評】 実質上の優勝戦と目された両強豪の対戦は、攻守好投の応酬で1点を競う緊迫した好ゲームを展開、0−0のまま大会3度目の延長戦と」なったが、試合は中島、藤間の投げ合いとなり、藤間は直球、カーブの一球一球を慎重に投げ徹底的に外角をついて打線をかわせば、大田中島は荒れ気味だったがアウドロで要所要所を攻め5回以降大社を無安打に封じた。前半藤間に完全に押さえられた大田は7回9回に3塁まで走者を進めたが大社の好守に阻まれ惜しくも得点機を逸した。
 延長戦に入ってからは逆に大社が11回を除いては毎回無死走者を出し、押し気味に試合を運び、14回スピードの落ちた中島を攻め、佐野中前安打となり、藤井が1−3後好球を左中間に2塁打して無死2、3塁の絶好機をつかんだ。続く山崎のバンドは1塁線に転がり、これをとった中島が走者山崎にタッチしなかったとの審判の判定に対し、大田側から激しい抗議が行われ、これまでの大会になかった松本審判長、中央派遣の宇都宮氏た7審判が協議、試合は40分間中断されて、場内は騒然となり、警官、消防団約20人が万一に備えて待機する緊迫した場面がみられた。大田木下監督の激しい抗議は執ようで、午後7時45分審判の判定どおりセーフとなったが、日没でゲームとなった。
放棄試合の宣告に涙をのむ
 翌日、再試合のためベンチ入りしていた大社チームに対し審判団が放棄試合を宣告した。審判ジャッジをめぐる紛糾から遂には試合放棄と悲憤の涙をのんだ大社高ナインは、27日午前零時半町民約2000人が出迎える深夜の大社町に帰った。出雲市駅まで一行を迎えた車は20台近く、出雲大社正面の広場には2000人町民が集まり、のぼりと提灯で埋まった。町民は挙げて選手たちの気持ちを慰め温かく迎えたのである。岩石大社町助役が歓迎の挨拶を述べ、千家尊宣後援会長、竹内京三副会長、中山敏三理事、多田県議、北井善衛監督等つぎつぎ立って事情を報告し、1時30分散会した。
 野球規則中「審判員に対する一般指示」に ”審判員は公平にして厳格であらねばならない” とある。もし本事件において審判団が正しく厳然とした態度で事に処していたならば、このような不祥事は起こらなかった筈である。また不幸にして悪い事態が発生したとしても、それはルールに則った放棄試合が大田に対して宣告されていたことであろう。
 即ち規則4.15には(b)項として「試合を長引かせ、または短くするために明らかに策を施した場合ー放棄試合が宣告される」また(e)項として「審判員が警告を発したにも拘わらず、故意に、また執拗に反則行為をなした場合ー放棄試合となる」と明記してある。
 審判員が大田側に対し、ルールに反する講義をさらに繰り返した場合は、この2項を適用する旨警告を発していたならば、大田側もあえて抗議を繰り返さなかったであろうし、また直ちに試合を再開した得た筈である。勿論日没ドロンゲームなどあり得なかったといってよかろう。
 一方野球は選手、監督そして審判員さらには観衆すべてものがルールを守ることによってのみ成り立つものなのである。さらにまた審判員がルールを厳格に適用することをさまたげる何らかの圧力が周囲にあったとすれば、野球を冒涜するも甚だしいといわねばなるまい。
 この事件の根底にこのようなムードがあったことは関係者の認める処であり、審判員の非を一概に責める訳にはゆかないのである。正しく堂々と戦って勝つべきチームが放棄試合の宣告を受け、ルールに反する判定上の抗議を繰り返して策を施し、制裁を受けるべきチームが罰を逃れて甲子園にまで出場したという、この珍事は長く高校野球史上に汚点として残ることであろう。
 県高野連8月20日大田高校野球部に対し翌年8月31日まで、大社野球部に対してはその年の12月31日までそれぞれ対外試合一切を自粛するよう勧告し、日本学生野球協会審査室委員会も10月14日同様の禁止命令を出した。前記制裁の軽重から考えても大社が放棄試合の宣告を受けたことは不当であったことを、県高野連も学生野球協会も認めていると考えてよかろう。このことから、事件発生当時、高校野球連盟本部や朝日新聞社大会本部が何故に地元の無理押しを制し公正な解決をなし得なかったのか、今後の大会運営上の大きな問題として検討さるべきである。
 当時高野連の会長であり大会長であった木島浜田高校長も8月20日に辞任し、この事件も一応解決したが県教育庁は7月30日県下各高校、市町村教育委員会に対して「学校の運動部は学校教育活動の重要な場であるから校長は生徒の自主的活動が健全に行われるよう運動部長、監督、指導者を指導するよう」指示した。
 不運に泣く選手たちは、対外試合禁止が解ける日を期して練習に励んだ。




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