歴代大社高校野球部写真

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野球部の創設
 第一中学の野球部創設が刺激となって、簸川中学(創立当時は簸川郡立尋常中学校と称し、明治32年4月中学校令改正により島根県簸川中学となる。同34年6月県立第三中学校と改め、同40年4月杵築中学、大正15年4月大社中学と改称)でも野球が行われるようになった。明治32年頃のことと考えられる。このころはまだ野球部が組織されていた訳ではなく愛好者が集まってベースボールを楽しんでいた程度である。
 杵築では出雲大社神楽殿横の広場で野球が行われ、この広場が杵築での野球の始まりの場所といわれとぉり、ここで野球を行った人々の多くが杵築中学の野球の選手となっている。
 明治33年5月、時の皇太子(大正天皇)御婚儀の佳日、広島県三次中学の生徒が修学旅行に来たのを機会に野球の試合が行われた。これが対外試合のはじめであると考えられる。ついで翌34年の5月、5年生と4年生が岡山、広島方面に修学旅行に出た折、岡山中学に野球の試合を申し込んだが、その日は日曜日であったため相手校の選手が集まらず、止む無く連合チームを作って試合を行った。当時は鉄道もひらけず、徒歩で鳥取の四十曲がりを過ぎて新庄に出、川を下って福渡に着き、ここからはじめて汽車を利用して岡山に行くという状態であった。
 対外試合も回を重ね、すでにその機は熟していたのであろうか、明治34年5月30日修学旅行から帰ると直ちに、野球を愛する生徒が集まって野球倶楽部を組織した。
 雑誌七生第5号(明治35年1月25日発行)によれば、「修学旅行から帰るや(註:明治34年5月30日帰校、5月16日より4、5年生岡山、広島方面に旅行)生徒は直ちに野球倶楽部といえるを組織して盛んに此技を練習せしが、尋で之を本会に移して運動部に附属せしめたれば撃剱と相対して運動部より更に隆ならんとす」と記録されている。小川千秋教諭が初代野球部長をつとめた。
 かくして明治31年5月に創立されたわが簸川中学にも、3年後にして早くも野球部の創設を見、校史に輝かしい一頁を記したのである。
 野球部創設の明治34年度の七生会支出総額459円40銭、このうち野球部費が66円80銭5厘であった。(七生第6号による)
 このころのわが野球部の選手は、捕手だけがミットを持ち、他のものはすべて素手であった。ボールは皮を縫い合わせた硬いものを使用し、用具のほとんどは自費で購入したものであった。また、鉄道のない当時のこと、遠隔地から通学する選手は練習を終えて日暮れた道を徒歩で1時間以上もかかって帰ったといわれている。当時教鞭をとっていた文豪大町桂月が、時折その長身を校庭にあらわしてベースボールを見物したという話も残っている。




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