歴代大社高校野球部写真


昭和36年
昭和36年の野球部員写真
・・・甲子園大会入場式予行演習を終えて・・・
(後列左から) 中部長、高畑、千家、川上幸、松尾、今岡、鎌田
(中列左から) 北井監督、山崎義、岡田、森山、山中教諭
(前列左から) 松田、持田、飯塚、山崎登、若月、祝部
部 長 中 和夫        監 督 北井善衛       コーチ 青野修三(立教)
主 将 千家敬麿     マネージャー 鎌田和典(3年)
投 手 若月宏之(3年)    捕 手 千家敬麿(3年)    一塁手 祝部豊久(3年)
二塁手 松田 武(3年)    三塁手 山ア登由(3年)    遊撃手 持田紘治(3年)
左翼手 森山信雄(3年)    中堅手 飯塚 孝(3年)    右翼手 高畑忠善(3年)
    岡田公志(2年)        山崎義則(2年)        川上幸信(2年)
 西中国大会
 大社高は、島根県予選一回戦で津和野を延長13回13対6、二回戦で出雲を4対0、三回戦では放棄試合となった因縁の大田高との対戦となり2点差で迎えた九回裏3点をあげ劇的な逆転サヨナラ勝ち、準決勝は強豪の濱田を4対2で破り西中国大会にコマを進めた。
 7月30日小雨降る浜田市営球場で大会の幕を開けた。午前9時前年代表校大社高を先頭に萩商工、安来、下関商の順で入場、高橋高校野球連盟会長の開会の挨拶についで、大社千家主将の優勝旗返還と力強い宣誓があって同10時小川浜田市長にし始球でプレーを開始した。
 大社は一回戦で山口の雄下関商を4対3で破り、萩商工を延長引分け再試合で7対2で退けた安来との決勝戦に臨んだ。

 決勝戦(8月1日)
大 社 000 000 000 = 1  (大 社)若月ー千家
安 来 000 000 000 = 0  (安 来)大櫃ー浜

大 社   打 安 点 失   安 来   打 安 点 失
E持 田  4 0 0 0   G渡部忠  2 0 0 0
H高 畑  4 1 0 0   D井 越  3 1 0 1
D山 ア  4 2 0 1   C菱 本  4 0 0 1
B祝 部  4 0 0 0   B成 相  4 0 0 0
A千 家  4 2 0 0   走墨 川  0 0 0 0
C松 田  4 1 0 1   A 浜   4 0 0 0
@若 月  4 1 0 0   E永 海  3 1 0 0
G飯 塚  2 1 0 0   H石 田  1 0 0 1
F森 山  3 0 0 0   打渡部次  1 0 0 0
                9浜 田  0 0 0 0
                @大 櫃  3 1 0 1
                F木 代  3 0 0 0

       33 8 0 2          28 3 0 3

 両軍とも三回まで毎回ランナーを出しながら、大社若月、安来大櫃両投手の好投にチャンスの芽をつまれて得点できなかった。
 大社は二回表、トップの千家が三遊間をきれいに抜く安打、松田は三振したが、若月右前安打で1死一、二塁の好機を迎え、先取点かと思われた。しかし、飯塚の送りバントで2死一、三塁となったあと、森山は捕手前にポツンと落ちるゴロでチャンスを逸した。
 安来も三回裏、トップの大櫃が中前安打、木代右飛で1死となったが、渡部の四球で二回表の大社と同様なケースとなった。次打者の井越の一撃はライナーとなって遊撃を襲ったが、大社の遊撃持田はこれをショートバンドですくって二塁、一塁と転送、併殺した。大社が四、五回とますます調子を上げた安来大櫃投手に三者凡退と片付けられたあと、五回裏安来はまず、永海中前安打、石田のバントで二進、1死二塁となったが、大櫃二ゴロ、木代三振でこの回も得点できなかった。
 大社は六回表、持田三ゴロのあと、高畑中前テキサス性の二塁打を放ったが山ア三振、祝部右飛に終わり、八回表にもトップの飯塚遊撃内野安打、次打者森山の投ゴロは野選となって無死一、二里のチャンスを迎えたものの、持田捕飛、高畑三振、山崎三ゴロについえた。
 一方の安来もそれ以後はチャンスなく0−0のまま延長にはいるかとおもわれたが、九回表、大社はついに得点をあげて安来を押し切った。この回、祝部三振で1死となったが、千家は三塁左を抜く安打、松田も三塁内野安打して三塁手がこれを一塁へ悪投する間に千家三塁へ。次の若月に対し、安来大櫃投手がスクイズを外そうと投げた球はとんでもない高い球となり、千家生還して大社は貴重な1点をあげた。
 九回裏、安来はトップの井越が三遊間を抜いて反撃に移ったが、菱本のバントで井越二塁に刺され、成相の遊ゴロで菱本も二塁にアウト、浜二飛で万事休した。
 この勝利で大社高校は昨年に続き甲子園に 連続出場 することになった。
 必勝のお守り
 甲子園では、大社ナインは全員出雲大社のおまもりを首にさげて戦った。なかには五つもあげている選手もいる。蛇の皮で出陣の前に体をなで試合に臨んだ。これはある父兄から贈られたもので、蛇のようにねばり強く勝負をすてるなという意味がある。
 大社教河内分院から御神餅が50近くも送られ、選手たちはこれを食べて必勝を祈った。武神といわれる京都石清水八幡宮の神札もあった。


昭和37年
昭和37年の野球部員写真
・・・大田市営球場にて・・・
(後列左から) 原監督、中部長、永見、今岡、児玉、松尾、影山、林、周藤、川上潤
(前列左から) 川上英、船木、川上幸、岡田、山崎、大熊
部 長 中 和夫        監 督 原 輝美
主 将 川上幸信     マネージャー 小田 潔(3年)
投 手 岡田公志(3年)    捕 手 船木健二(1年)    一塁手 山ア義則(3年)
二塁手 影山康郎(2年)    三塁手 川上幸信(3年)    遊撃手 松尾 勲(2年)
左翼手 今岡 収(3年)    中堅手 大熊素雄(3年)    右翼手 児玉光正(2年)
    永見嘉行(1年)        秦 伸介(2年)        川上英二(1年)
    川上 潤(1年)        今岡 徹(1年)        片寄久雄(1年)
 夏の大会県予選
 春の大会以後、出雲、出雲産、大田、邇摩、湘南、江津、川本の諸校と練習試合を行ったが、勝敗なかばし夏の大会を迎えた。6月末から、東京、阪神地方の学生先輩が帰省して練習に一層烈しさを加えた。7月12日から合宿練習に入り、仕上げを行って臨んだ。
 第44回全国高校野球選手権大会島根予選は、7月20日から8日間、大田市営球場で開催された。大社は24日湘南高校を11対0の7回コールド勝ち、26日の準々決勝では松江工3対0で下し、西中国大会出場をかけての浜田との準決勝は28日行われた。

 準決勝(代表決定戦)
浜 田 000 200 001 = 3  (浜 田)佐々木ー酒井
大 社 000 000 000 = 0  (大 社)岡田ー船木

 浜 田 30 9 3 5 3 3 3 0 6
     打 安 点 振 球 犠 盗 併 残
 大 社 30 3 0 5 1 0 0 1 4

浜 田   打 安 点     大 社   打 安 点
A酒 井  4 1 0     C影 山  4 0 0
F投其原  3 0 0     G大 熊  4 1 0
G下 尾  3 0 0     E松 尾  3 0 0
C鬼 城  3 2 0     @岡 田  4 1 0
H植 野  4 2 2     B山 ア  3 0 0
D草 野  4 2 0     D川上幸  3 0 0
B大 島  3 1 1     A船 木  3 1 0
E小 沢  4 1 0     F川上英  3 0 0
@佐々木  1 0 0     H児 玉  3 0 0
7梨 田  1 0 0

       30 9 3           30 3 0

 浜田は大社岡田を打ち込み西中国大会へ進出が決まった。
 左腕岡田が浜田の打線をいかにかわすかがポイントだったが、浜田は四回表先頭其原が二塁失に生きたあとばんとで送り、続く鬼城の一打は二塁けん制にスタートした遊撃の逆をついて内野安打となり一、三塁、植野は2−3後の岡田の直球を左翼越に痛打先制の2点をあげた。
 これに対し大社は、一、二回先発の佐々木を激しく攻め、一回は1死後船木が左翼線三塁打してチャンスをつかんだが、川上英のスクイズ失敗で好機をつぶした。このピンチを切り抜けた佐々木は完全に立ち直り、重い速球を決めて大社打線を押えた。六回に入り大社は1死後大熊のバント安打、松尾の四球で一、二塁を攻めたが浜田は其原をプレートに送り、期待の岡田は遊飛に倒れた。七回以降其原はスロードロップと直球を内外角に投げ分け、見事なピッチングで大社に反撃のチャンスを与えなかった。大社は打棒振るわず3対0で破れ、3年連続甲子園出場の夢は破れた。



 思い出の記
昭和37年度主将 川上幸信

 僕が野球部に在籍していたのは、高校時代の2年半、しかし、このわずかな2年半の選手生活ではあったが、幾多の喜怒哀楽に浸ることが出来た。
 野球選手時代の思い出は今もなお僕の脳裏に焼き付いて忘れることは出来ない。
 入部してからわずか半年で何十年振り、戦後初めての甲子園出場、そして翌年と、2年連続出場した時に入部していたことは僕にとって本当に幸運であったように思える。
 この輝かしい記録の後を受け継いで僕たちの任務は、非常に重大で会ったかも知れない。そして、2年連続出場の記録をさらに一層輝かしいものにしようと連日練習に励んだ。
 そして甲子園への夢を乗せた夏の大会に臨んだ。しかし、戦い我に利あらず早くも県予選で敗退してしまった。
 その年の中国大会は山口県の徳山市で開かれ、僕はチームの代表として優勝旗の返還に一人でいかなければならなかった。
 先輩が2年間守り続けてきたこの優勝旗は今、自分の手によって返還されようとしている。せめてこのグランドでチームの人たちとともに正々堂々と入場したかった。だれもそれを望んでいたに違いなかった。が今、現に入場行進しているのは自分一人ではないか。この時の僕の気持ちは言葉ではとうてい言い表せないほどの悲しみで胸が一杯であるにもかかわらず、何かつかむことの出来ない心の空虚感が漂っているのを知った。
 友とともに励まし合い、語りつつ、汗と泥にまみれながら練習したあの苦しかった毎日、野球に対する情熱は今は何処へ行ってしまったのだろうか?このはかなさは、行進している僕を一層苦しませ、みじめさに追いやるのであった。しかし、それ以上に、だれにも負けず、愛情と、特別な主将としての責任をになっていたためでもあったろうか。今にして考えて見ると、若さあるファイトと、情熱を持っていたにもかかわらず、われ等の願望を果たし得なかったことは、ただ単なる何物かをだけ持ち合わせていたのでは、苦難の道を突き進むことは出来ないとつくづく思う、これは一般に、現実社会における生存競争の激しさの条件と同じことであるともいえよう。このことも、学園生活において、野球をすることによって、一歩を悟り、痛感する現在なのである。
 今はただ母校、大社高校野球部への愛情切であり、発展を祈るとともに、わが野球生活における幾多の喜怒哀楽を今もなお抱きつつ、綴った思い出の記なのである。
   忘るまじ 我が青春の一コマに
      喜び与えし 野球の道を



 追悼野球大会
追悼記念大会集合写真
社高グランド追悼記念大会集合写真
 竹内京三、高橋設己、西倉実三先輩の追悼野球大会が7がつ15日午後1時から大社野球クラブ主催で高校グランドで催された。試合に先立ち、多数の先輩、大社野球クラブ会員、大社高校部員、大社中学野球部員などが参列して追悼の式が行われた。続いて遺影を前に次の3試合が行われ、特に第3試合は延長引分けに終わるという近来希に見る大試合であった。観衆も多く極めて盛大であった。
 大社クラブ 1−2 社高チーム
 先輩学生軍 12−3 社高チーム
 大社クラブ 1ー1 先輩学生軍 


昭和38年
昭和38年の野球部員写真
(後列左から) 中部長、松尾、児玉、椿
(前列左から) 影山、秦
部 長 中 和夫        監 督 小田川幸市
主 将 影山康郎     マネージャー 椿 昌道(3年)
投 手 松尾 勲(3年)    捕 手 船木健二(2年)    一塁手 秦 伸介(3年)
二塁手 川上 潤(2年)    三塁手 松本信生(1年)    遊撃手 影山康郎(3年)
左翼手 川上英二(2年)    中堅手 児玉光正(3年)    右翼手 石田喜代志(1年)
    永見嘉行(2年)        片寄久雄(2年)        高橋貞男(1年)
    渡部修綱(1年)        佐野 栄(1年)        小田川光徳(1年)
    山本 稔(1年)        森山 勉(1年)        後長佳男(1年)
    石川智士(1年)        稲葉 稔(1年)
 夏の大会
 第45回全国高校野球県予選大会は、7月21日から松江市営球場で挙行された。大社ナインは松江市内赤木旅館に投宿して明日に備えた。大社は一回戦で津和野を4対1、二回戦は安来との延長10回川上英二の劇的ホームランで4対3で勝利し、準決勝は松江商に2対1の逆転勝利。邇摩との決勝戦にコマを進めた。

 決勝戦(7月28日)
 邇摩との決勝戦は、午後零時57分プレーボール。決勝戦にふさわしい最後まで予断を許さない好ゲームが展開されたが、大社は勝負強さを遺憾なく発揮し、6安打のうち4安打を得点に結びつけ、松尾、永見の巧い継投策で9回裏代打、代走を出して食い下がる邇摩を振り切った。

大社 000 120 100 = 3  (大社)松尾、永見、松尾ー船木
邇摩 000 001 001 = 2  (邇摩)小原ー大野

 大社 31 6 3 7 1 1 1
    打  安 点 振 球 盗 失
 邇摩 30 6 2 2 5 0 0

 大社高は邇摩小原投手の内角球、カーブを捨て、外角球一本をねらう作戦に出たが、これが的中、4回には影山を2塁に置いて松尾が2−1後外角高めの直球を右中間二塁打で1点、5回には2死後、児玉のチョンと出したバットに当たった打球は幸運な中前安打となり続く川上潤も2−1と追い込まれながら、内角球を3塁頭上を越す安打と小原にとってはやりきれない安打が続いた。これで動揺した小原は間をとることを忘れ、石田にまたも外角球を投ずると石田は強振して右翼寄りに守備していた丸亀の逆をつく3塁打となって2点を入れた。
邇摩のバッテリーの配給が変わらぬところをとらえた大社ベンチの勝利だった。小原は6回以後カーブを交えて好投しただけにわずか5球で2点を奪われた5回は邇摩にとっては魔の5回であった。
 一方邇摩は勝敗を意識しすぎてかバッティングが堅く、上位打線ハバランスがくずれ松尾のカーブを打ちあぐんだ。邇摩は六回日貫が四球、暴投と丸亀の適時打で1点を返し、中心打線に期待がかけられたが代わった永見の力投に押えられ1点にとどまった。最終回、縄、長尾が四球に出て反撃機をつかんだが、大社は再び松尾にスイッチ、代打三町の犠牲バンドで2、3塁と一打同点の好機をつかんだ。松本の中堅犠飛で代走松尾生還、日貫の遊ゴロ失で1、3塁となった。決勝戦の幕切れはまさに全観衆緊張の一瞬であった。1、3塁の走者に最後の望みを託したダブル・スチールも、大社高船木捕手から影山遊撃手に送られたボールがさらにホームに転送され、ホームにすべり込んだ邇摩高長尾選手にタッチされ主審の右手が高々と上げられた。
 その瞬間すでに総立ちになっていた一塁側スタンドの大社高応援団は大歓声をあげ、30人あまりのファンがグランドへ両手をあげて飛び出した。どの顔も泣き笑いの顔。喜びをかみしめて試合終了のあいさつをすませた選手達はそのまま応援席に並び、中沢孝昭団長ら応援団のリードで応援歌の祝福をうけた。このあとナイン一同は小田川幸市監督のもとにかけ寄って胴上げ、試合の苦しみも吹き飛ばすかのように2回3回と高くほおりあげた。
 この栄冠の陰には ”試合に負けて泣くな、練習で泣け" の徹底したハードトレーニングが実を結んだといえよう。冬季練習では、雪の中を砂をつめたリュックサックを背負っての鍛錬も続けた。これがどんなに苦しくてもがんばり通す粘りとなり、闘志となって現れた。夏の大会前には20数人の先輩がかけつけ、小田川監督と一体になって指導に当たり、バッティング投手は全部先輩が受け持ち、先輩がひとりひとりの選手につきっきりで指導に当たるという最も効果的な練習が行われた。さらに試合前一週間は連日先輩との紅白試合が行われ、実践的な練習に選手達の技術は日々進境を見せ、自信ともなって大会には最高のコンディションで臨んだのである。
 この勝利により、大社高校は2年ぶり、6度目の 甲子園出場 が決まった。

 午後7時15分、優勝旗を先頭に大社に到着。駅前広場を埋めた人波、提灯、林立する幟、わき上がる歓声と拍手、盛大な歓迎であった。10数台の車に分乗してブラスバンドを先頭にパレード、勢溜で祝勝会が催された。蒲生町長、小林PTA会長の祝辞と激励を受けた後、出雲大社に優勝を報告し、再び町内をパレードした。


昭和39年
昭和39の野球部員写真
(後列左から) 山本、三原、中筋、船木、川上英、永見、川上潤、中富、大国、中部長
(中列左から) 松本、高橋、佐野、石田、小田川、森山、渡部、山本
(前列左から) 加藤、馬庭、高橋、別所、日野、原、永見、広戸監督
部 長 中 和夫        監 督 広戸剣次
主 将 船木健二     マネージャー 中富善男     マネージャー 金山忠夫
投 手 山本 稔(2年)    捕 手 船木健二(3年)    一塁手 佐野 栄(2年)
二塁手 渡部修綱(2年)    三塁手 松本信生(2年)    遊撃手 川上 潤(3年)
左翼手 川上英二(3年)    中堅手 永見嘉行(3年)    右翼手 石田喜代志(2年)
    高橋貞男(2年)        小田川光徳(2年)       日野光郎(1年)
    別所信芳(1年)        馬庭厚吉(1年)        野津正志(1年)
    永見敏国(1年)  原 忠夫(1年)   嘉藤博秋(1年)   園山雅樹(1年)
 夏の大会
 昨年甲子園大会出場者のうち4名卒業の後、9名の新入部員を加えて昨年に劣らないチームの活躍が期待されたが、春季選手権大会は緒戦で敗退した。大会後練習試合では大田・邇摩・米子南に敗れはしたが平田・松江工・安来・松江北・江津・附農・出雲・益田の各校に勝ち7月9日から一週間合宿練習を始める頃からは特に多くの先輩が毎日グランドにきて、広戸監督を中心に指導激励して打撃力の向上が目立ち、衆目の期待を受けて夏の大会に臨んだ。
 第46回全国高校野球選手権大会県東部地区大会は7月21日から3日間松江市営球場で行われる予定であったが、18・19日の2日にわたって襲った豪雨は、出雲地方に大被害を与え、道路鉄道は寸断されて不通となり、殊に加茂・出雲・多伎地方の山崩れ大出水は100余名の犠牲者さえ出し、辛うじて22日に開会した初日の第一試合に当たっていた大東高校の出場があやぶまれていたが、大会本部のはからいで2日目に延ばして出場した。数名の選手は家屋と共にユニホームを流失し、やっと借りて間に合わせても背番号がないという気の毒な状態であった。
 1回戦は松江工との対戦で四回に1点先取され苦しい試合だったが、山本投手の12奪三振と好守備で3対2の逆転勝利。2回戦の平田とは点の取り合いとなり8対6で制し、県大会へとコマを進めた。
 県大会 松江商との1回戦(7月26日)
 浜田市民球場で東部地区から大社・出雲商・松江商・湘南、西部地区から大田・浜田・浜田水・津和野の8校が出場して開かれた。

松江商 101 001 300 = 6  (松江商)野津俊ー玉井
大 社 200 003 000 = 5  (大 社)山本ー船木

松江商   打 安 点     大 社   打 安 点
B池 尻  5 2 0     G永 見  4 1 0
F永 瀬  4 0 0     C渡 部  4 2 0
G黒 崎  4 3 2     A船 木  3 1 1
C綿 谷  5 2 0     B佐 野  3 1 1
E中 脇  5 1 1     F川上英  4 1 0
D小 室  5 2 0     E川上潤  2 1 2
A玉 井  5 3 1     H森 山  4 1 0
H木 村  2 1 1     @山 本  3 0 0
打野津勇  0 0 0     打石 田  1 0 0
右須 田  1 0 0     D松 本  3 0 0
@野津俊  3 1 1

       39 15 6           31 8 4

 三転、四転、長短23本の安打が乱れ飛ぶ打撃戦はついに松江商の勝利に終わった。一回表、松江商がいきなり2本の二塁打で先取点をあげれば、その裏大社は3安打を集めたちまち逆転するなど試合は初めから荒れ模様。松江商は三回、野津俊の本塁打で同点とし、六回に中脇・玉井の2安打でリドを奪い、その裏守備陣の乱れから3点を奪われたが、七回打者一巡の猛攻でついにねばる大社を振り切った。炎天下、3時間にわたる激しい攻防にスタンドから惜しみない拍手が送られた。大社高校の夏は県大会1回戦で終わった。


 夢見た甲子園
昭和39年度主将 船木健二

 「明日からこい。」そう言ったの野球部の先輩は体が大きく高校生にはこんな大きい人もいるのかとその時思った。その日から自分の好きな野球が始まった。今から思えば高校生活3年間の3分の2は野球生活で終わったようなものだ。初めは練習が終わって帰ると、急に体がだるくて節々が痛み出し体の調節に悩んだ。合宿練習では特にそれが激しかった。しかしこれは厳しい中にも大変楽しくそれを乗り越えた時の喜びは筆舌に尽くせぬものがあった。一年、二年と毎日朝から6時間授業して放課後は遅くまで練習。こうした時間が夢のように過ぎた。たまの休みーあまりなかったがーには、好きな映画を見たり、軽音楽を聞くのを何よりの楽しみとした。試合で勝ってロッカーでユニホームを着かえる時どのように言っていいのか・・・、それは、自分一人だけのうれしさではなく、一緒に闘った選手と分かち合う喜びであった。また敗けた時のショックは何とも言えないわびしさである。
 一昨年私どものいつもあこがれた甲子園大会に出場することが出来た。夢見た甲子園!入場式の感激は今もよみがえってくる。相加高校と戦うことになったが、我に利あらず、試合が終わってベンチに帰るとだれも声をのんで頭を垂れ、目には熱涙を浮かべていた。自分もその時蔭で存分泣いた。試合に敗けたということは ”死” といものと同じみじめさだとしみじみ感じた。何とかして来年も甲子園に出て全国民の前で大社高校の名を出そうと、その日から心に強く言い聞かせた。父母も、進塁、そして友人が応援にきてくれたのに・・・。
 母は毎日自分の好きな食べ物を食べさせてくれた。また汗と泥とにまみれたユニホームの手入れ、こうして3年間、自分はこんなにして夜遅くまで家中に迷惑をかけたことを深く感謝している。そして3年目の最後の大会がやってきた。4それまでには、雨の日、風の日も、みんな力を合わせて練習を積んできた。大会の日には町民を始めわが校の数少ない応援団、その中から小村団長、荒木副団長を始め、生徒諸君のみなさんの心からの応援が選手一人一人の心に響いた。それにもかかわらず最後の大会は、県大会にまで出場し松江工業に敗れてしまった。夢に見ていた甲子園も今となっては二度と行くことが出来なくなってしまった。でもこれから後輩に自分の経験してよかったことを指導し、甲子園に出てくれるようお願いする。


昭和40年
昭和40年の野球部員写真
(後列左から) 五十殿教諭、上田部長、米井、石田、伊藤(佐野)、山本、中教諭、広沢教諭、山中教諭
(前列左から) 高橋、渡部、松本、後長、小田川、森山
部 長 上田 弘    監 督 広戸剣次   主 将 石田喜代志(3年)
投 手 山本 稔(3年)    捕 手 森山 稔(3年)    一塁手 高橋貞男(3年)
二塁手 小田川光徳(3年)   三塁手 松本信生(3年)    遊撃手 渡部修綱(3年)
左翼手 佐野 栄(3年)    中堅手 石田喜代志(3年)   右翼手 後長佳男(3年)
    高橋義郎(2年)        別所信芳(2年)        園山雅樹(2年)
    嘉藤博秋(2年)        原 忠夫(2年)        永見敏国(2年)
    内田博千(1年) マネージャー 米井浩文(3年)
 夏の東部地区予選 湘南との二回戦
 湘南は堂々の試合運びで大社を降した。大社のエース山本はカーブ、外角いっぱいの直球が思うにまかせずカウントを整えようとするところを痛打された。湘南は二回裏、斉木、須田の長短打で1点を先行してからは大いに意気あがり、三回同点同点に追いつかれると四回裏に4二塁打で追加点をあげた。
 一方大社は攻撃に大社らしい迫力がみられず、三回の一死満塁の好機にも代わった斉木にスクイズで同点にしただけの消極さで、つねに後手々々に回った。四回以降シュートを投げる斉木の打たせてとるピッチングに巻き込まれさっぱり。七回に1点、八回には一死満塁で一打逆転の好機を迎えたが、渡部がスリーバント失敗で併設を喫し、みずからの好機の芽をつみとった。大社は湘南の闘志に圧倒され11安打で2点しかとれない拙攻に終始してしまった。

大社 001 000 100 = 2  (大社)山本ー森山
湘南 010 110 00× = 3  (湘南)梶谷、斉木ー斉木

 大社 34 11 2 2 5 2 3 1 12
    打  安  点 振 球 犠 盗 失 残
 湘南 29  8 3 2 3 0 0 1 5


 監督としての2年間  
元監督 広戸剣次

 私が母校野球部監督の依頼を受けたのが、昭和38年9月中旬、22歳の時でした。この頃、プレーをすることには少し自信を持っていましたが、指導者としての経験は全くなく戸惑いと不安がありました。しかし、中山敏三OB会長、中和夫部長の説得を受け引き受けることになりました。
 当時の母校野球部は、北井善衛先輩のもとで甲子園連続出場を果たし、素晴らしい成績を残された後でもあり、又この夏は小田川幸市先輩が、第45回記念大会に甲子園出場、県下に敵なしの時期でもありました。新チームを引き受けた時のメンバーには甲子園で活躍した船木、永見、石田等数十名が残っており学校関係、諸先輩、大社町民の方々の期待も大きかったと思います。ところが私がチームを引き受けて練習試合をするようになってから連敗が続き関係者一同も、やきもきしておられたことと思います。そんな中での試合の後、用務員室で中部長のヤカン酒のもてなしで北井先輩より反省させられ、叱咤を受けることが度々ありました。その時の戦況の中で今でも忘れる事が出来ない言葉の一つに「何が何でも勝つのだ!!勝てば官軍だ!!」北井先輩の勝利に対する執念はすさまじいものがありました。
 私も若い時で大先輩に向かって「練習試合ぐらい負けてもいいではないですか」と反論したものです。
 当時私は監督として試合に勝つという事より生徒たちの中から一人でも多く中央球界で活躍出来るような選手を育てたいと思う気持ちが強かったように思います。
 当時の練習は今でしたら問題になるような無茶な練習を行っていました。主将石田をはじめ、伊藤(旧姓佐野)、渡部、高橋、小田川、新田、内田等の生徒達は毎日誰かが、バットで尻を叩かれていたものです。特に伊藤、高橋両名は卒業し社会人になってからも尻と太ももに黒いアザが残っていたという話を数年前に聞きました。私も一生懸命でしたが、それ以上に生徒達が毎日厳しい練習によく耐えて頑張ってくれました。
 当時は秋季予選、春季大会に一、二回戦で敗退しても夏季予選前になると「夏の大社」と他校からマークされたものです。丁度この頃大学、ノンプロ球界の一戦で活躍していた大国、若月、高畑の先輩が夏休みになると帰省し連日グランドに出掛け熱心に指導してくれ、特に試合の2週間前になると個人ノックを受け、この練習方法で守備の面は数日間で目を見張る程上達したものです。
 監督を引き受けた翌年、春の選抜につながる秋季大会に優勝し県代表として中国大会に出場、山口県代表桜ヶ丘高校と対戦し惜しくも0対1で敗れましたが、これを機にこれまで以上に厳しい練習に取り組み、2年目の夏には石田主将はじめ3年生レギュラーを中心とした素晴らしいチームが出来ました。新聞紙上でも優勝候補最右翼と評され又各校からもマークされていたと思います。チームの仕上がりも良く私自身この頃には県下に敵なしと思っていました。ところが、大会10日前に湘南高校より練習試合の申し込みがあり母校グランドで行いました。
 大会前でもあり町民の方も多数応援、観戦に来てもらいW試合を行い2試合共2桁得点で圧勝しました。が、この時点で夏の予選大会には負けていたのです。この頃選手一同に精神面の引き締めを強調していたのですが、一番大切な私自身の心の「たが」が緩んでいたのです。
 大会二回戦目に10日前の練習試合に圧勝した湘南高校と対戦することが決まった時、私は昨年の秋季大会に次いで優勝出来たような気持になっていたのです。
 生徒達には力の差があるのだが、ゆるめてはいけないと力説していたのですが・・・。私の若さと油断で負けてしまいました。
 中学校へ入学と同時に野球を始め青春時代の全てを野球に費やした中で生涯忘れることの出来ない一戦でした。
 私が監督を受け持ってわすか2年間ではありましたが、この間一人の退部者も出ず、共に汗と涙を流した諸君が今立派な社会人として、それぞれの職場で活躍をしていることを嬉しく、又誇りに思う今日この頃です。


昭和41年
昭和41年の野球部員写真
(後列左から) 山中教諭、馬庭、五十殿教諭、園山、高橋、(左上)松阪(嘉藤)
(前列左から) 石田(別所)、原、野津、永見、上田部長
部 長 上田 博   監 督 北井宏弥    主 将 高橋義郎
投 手 内田博千(2年)    捕 手 新田秀幸(2年)    一塁手 原 忠夫(3年)
二塁手 永見敏国(3年)    三塁手 嘉藤博秋(3年)    遊撃手 永見俊夫(2年)
左翼手 野津正志(3年)    中堅手 高橋義郎(3年)    右翼手 別称信芳(3年)
    園山雅樹(3年)        篠原秀雄(2年)        山崎一夫(2年)
    永見 一(1年)        千家和比古(1年)       北村章治(1年)
    尾添 勝(1年)  マネジャー 馬庭厚吉(3年)
 夏の東部地区大会 松江商との二回戦
 一回戦で出雲商を4対1で破って臨んだ二回戦は7月24日松江市営球場で行われた。対戦相手は、松江北に圧勝した松江商。好カードに相応しく、力のこもった一戦だったが、打力にまさる松江商が打ち勝った。松江商米田、大社内田の好投で前半は投げ合いの形となttが、松江商は六回表に二死二塁の走者をおいて九番川村が左翼越えの三塁打を放ち均衡を破った。最終回には内田の真ん中低目の直球をうまくとらえて米田が左翼場外に2ランホーマー、この回決定的な4点をあげてダメを押した。大社打線は米田の速球に手こずり、散発4安打に退けられた。

松江商 001 001 004 = 6  (松江商)米田ー錦織正
大 社 000 100 000 = 1  (大 社)内田ー新田

 松江商 38 10 6 8 3 2 0 1 10
     打  安  点 振 球 犠 盗 失 残
 大 社 28  4 0 8 4 0 1 3 4


 思い出
元監督 北井宏弥

 私が監督を引き受けたのは昭和40年秋季大会が終わった後の11月だった。当時の監督広戸先輩より強引かつ脅迫的な再三再四の要請に、到頭根負けしてのことである。早速グランドに出て、キャッチボール、守備、打撃を見ていくうちに「どうもおかしい、高校野球はこの位のレベルだったかな?」と気抜けしたことを覚えている。広戸先輩の後日談「レギュラーがほとんで3年生だったから、3年中心で、1・2年生はあまり教えていない」。それで納得した。私も初めてだしチーム作りをいろいろ考えた。ボールの握れない冬季にはランニング主体で身体をつくりながら、一人ひとりに捕球動作、スローイング、バッティングフォーム、スライディング等の基本の型をみっちり仕込みたいと思った。我流でもある程度まではいくが上達には限界があるからである。種々の基本型をリズムにのせて身体で覚えさせたい、身体が自然にリズムをつかむためには反復練習しかない。その単純な反復練習こそ、根気比べである。お互いに、忍耐強くやるしかなかった。冬季も終わり、3月10頃よりボールを握っての本格的な猛練習に入った。特に主将の高橋君には厳しくあたった。「このチームの長男であるおまえ、頼むぞ!」の思いであったが、この気持ちはお互いに分かりあっていた。それが出たのが夏の大会である。
 夏の大会前日、松江の宿での夕食後のミーティングが終わってから、私自身初めての大会であり、相手校研究の復習のため、そして古き佳き時代のことである、2・3年生にリラックスする機会を与えようと、わざと一人でお茶を飲みに出かけた。部屋にかけてあるシャツの胸ポケットにハイライトを2箱入れることを忘れずにーー。1時間程してから帰ってシャツを見れば、1箱は空、2箱目は2本の残あり・・・1年生は間違いなく見張り役だろう。ベランダに「オーイ」と声をかければ「ハイ・ハイ・ハイ」見ると誰もがうちわを持っている。何をするためか、言わずもかなである。11時頃、選手の部屋をのぞいてみれば、ほとんどの者が寝息をたてている中で、2年生の永見君が緊張と興奮で寝付かれない様子、「おい、ランキョ」と手招きしたらニコッと笑って私の部屋について来た。下から米の汁をもらい「睡眠薬だ」とコップを差し出すと「ハイ」と素直な永見君、ググーと呑んで「ハァー、監督さん、もう一杯いいですか?」2年生でショートの彼、日ごろから神経の細さが気になっていたので、ついついもう一杯差し出した。その呑みっぷりのすごいこと!それが功を奏したのか、出雲商業戦では、見事三塁打を打ってくれた。出雲商業に勝ち、二回戦優勝候補の好投手米田君のいる松江商業との一戦である。松商のデータはOBからもらっていたが、今現在の調子が知りたいため、松江在住のOBにお願いしていたところ、捕手の錦織君が昨日の練習で突き指したらしいとの情報が寄せられた。ところが試合前の練習ではビュンビュン投げている。ケガのカムフラージュのため意識的にそうしているのか。ケガがデマか?私は判断に苦しんだ。試合が始まって1点先取され、バッター主将の高橋君からの攻撃、米田君が好投手で、何枚も上手、打って点は取れないとみた、「義郎!お前一人で点を取って来い!」心からそう願った。四球で一塁へ。ベースに着いたと同時に目が合った。(ツキユビ)決断した。1球目でサインは盗塁、セカンドへ身体ごとぶつけるスライディング、セーフ。又目と目が合った。ヨシ、再び1球目盗塁、三塁へ猛然とスライディング、セーフ。捕手錦織君の送球は暴投になりレフト線を転々とする中、高橋君はホームイン。まさに気力でもぎとった1点であった。好投手米田君を擁する松商からの貴重な1点、情報を頂いたOBに感謝し、分かり合った高橋君に男の心意気を感じたことだった。
 練習試合では予算の都合上こちらから出掛けられず、又未熟な新米監督ゆえに有名校は来てくれないという中で、大変うれしいことには、友人が監督をしていた広島の呉港(甲子園で優勝)が大社に来てくれたこと、又、2月頃からお願いしていた米子東が選抜から帰って5月に、練習試合に米子へ来るようにとのこと(選抜出場の邇摩も来ていた)故伯父正雄、父善衛と親交があり、私も最も尊敬する岡本監督に声をかけて頂き、試合をさせてもらったことは、選手はもちろん私にとっても良い勉強になった。私は少年の頃より米子東(岡本監督)のファンであり、山陰地方で高校野球の手本としたのも米子東であった。プロにいくようなせんしゅな選手はいないし、育てない、素人が入部してもレギュラーになる(なれるのではなく、練習によって勝ち取る)甲子園に出れば、必ず初戦突破し、いいところまでいく。勉学の面でも選手が現役で東大をはじめ有名校に次々と合格する。まさに文武両道であった。この岡本監督が口癖に「基本を大切に」と言っておられた。派手さもスマートさもない地味な粘り強い反復練習である。私は大会前、沢山のOBが帰って練習を手伝ってくれる中「基本がいかに大切か」のお手本をみせるため、大学や職場で活躍中の現役OBには実際選手と一緒にノックを受けてもらった。立教の若月君、慶応の千家君、元巨人の山崎君等のOBも高校生のお手本となるべく、本当に真剣に取り組んでくれた。それをみて部員達も基本型をものにすることがいかに大切か、学んでくれたと思う。
 私の都合で1年という短期間ではあったが、普通なら歯牙にもかけてもらえぬ若輩者の立場にありながら、大社高校野球部監督という、ありがたい肩書のおかげで、野球界に限らず多方面にわたって、大御所と呼ばれる方々から、いろいろと勇気づけて頂いた。これもひとえに我々の先輩が汗と土にまみれ、築いて来られた栄誉ある大社高校野球部の伝統と誇りのたまものとOB諸氏に感謝致しました。
 今後の発展を記念して筆をおきます。


昭和42年
昭和42年の野球部員写真>
(後列左から) 上田部長、川上一、永見敏、山本(北村)、尾添、篠原、新田、石富、小中、堀川、川上、川本
(前列左から) 嘉藤、吉村、手銭、山崎、川上監督、田村、内田、永見栄、千家
部 長 上田 弘   監 督 川上 裕       主 将 永見俊夫
投 手 内田博千(3年)    投 手 石富雄治(3年)    捕 手 山ア一夫(3年)
一塁手 篠原秀雄(3年)    二塁手 永見俊夫(3年)    三塁手 永見栄二(2年)
遊撃手 手銭 良(2年)    左翼手 北村章治(2年)    中堅手 千家和比古(2年)
右翼手 新田秀幸(3年)        尾添 勝(2年)        田村 博(1年)
    嘉藤律雄(1年)        堀川 勝(1年)        川本正広(1年)
    小中 勲(1年) マネージャー 川上一郎(3年)
 春の大会 決勝戦
 準決勝で安来を15対4という大差で勝利。5月8日松江市営球場で邇摩との決勝戦を迎えた。
 安定した守備をほこっていた邇摩に思わぬ凡エラーが相次ぎ自滅した形となった。初回邇摩はトップ三上が大社内田の2球目真ん中に入る直球をいきなり左翼フェンス越えに見事なホームラン、五回には二死から藤井が三塁打、続いて四球で出た田辺が二盗を企て、大社新田が二塁に送球する間に藤井がすかさずホームをついて2点目、試合の主導権を握ってそのまま押し切るかにみえたが六回裏になって内野守備陣にエラーが続出した。大社は2対0とリードされたこの回トップ北村が遊ゴロ失で生き、捕逸で二進、二死後に永見俊が二塁打して1点、続く内田の遊ゴロを三上が一塁に悪投する間に永見俊が生還、さらに新田の遊ゴロを送球を受けた一塁和田がポロリと落とし内田もかえり逆転の3点目、勢いづいた大社は七回にも3本の安打をうまく得点に結びつけてダメを押した。邇摩のエース岡田は、準決勝の対出雲商戦で打席に入ろうとしたとき主審がうしりに投げた前の打者のバットが右手に当たって負傷、決勝戦に登板出来なかったのは痛かった。強敵邇摩にしぶとく食い下がった大社の気力の勝利。

邇 摩 100 010 000 = 2  (邇摩)田中ー大野
大 社 000 003 30 × = 6  (大社)内田ー新田

邇 摩   打 安 点     大 社   打 安 点
E三 上  5 1 1     F山 崎  4 2 0
G山 本  5 0 0     D永見栄  4 1 0
H藤 井  3 1 0     C永見俊  4 1 1
D田 辺  4 1 0     @内 田  3 0 1
@田 中  3 1 0     A新 田  4 1 2
F三 谷  2 0 0     B篠 原  4 1 0
B和 田  4 1 0     G手 銭  4 0 0
A大 野  4 1 0     H田 村  2 0 0
C杉 岡  4 0 0     9千 家  1 0 0
                E北 村  3 0 0

       34 6 1           33 6 4

 地区予選から投手、打撃が好調で圧倒的な強さを見せ県大会に出場、西部地区代表浜田商戦を最終回詰めよられたものの押し切り準決勝へ、石富ー内田の継投も絶好調、そして打撃も良く14安打で15点、一方的に試合を決め決勝戦。初回ホームランを三上に打たれ ”てごわいな” という感じを受けたが内田の調子も良く、五回に追加点をとられながらも、あせることなく試合を運んだ。相手投手岡田は、前試合で負傷し、2年生の代役、田中が投げた。この田中、岡田よりはもっとスピードがあり大社打線も振るわず三振の山を築いたが六回裏相手のエラーに乗じ逆転し、なお七回だめ押しの3点を追加し6対2で逆転勝ちし優勝したのである。
 投手の内田、石富の好投と、継投策が功を奏し、また打撃も大物打ちは少なく永見俊を筆頭に全員がジャストミートを心がけ投打にまとまり無心に、そしてきびきびと全力で戦った成果がこの優勝であった。

 夏の大会は、東部地区予選の一回戦で安来と対戦し惜敗し大社高校の夏は終わった。邇摩も予選で敗退し県大会に出場出来なかった。益田農と浜田水が県代表となり西中国大会に出場した。決勝戦で浜田水が山口の早鞆に破れ、甲子園出場は5年続けて山口県勢となった。
 夏の大会終了後、昨年実現できなかった日韓親善試合が8月7日松江市営球場で行われ、大社高校から内田(投手)新田(捕手)永見俊(内野)が東部選抜軍に選ばれて出場したが、9対3で敗れた。また韓国に遠征する島根県高校選抜チームに内田、新田 両名が選ばれ7勝1敗の成績を残した。


昭和43年
昭和43年の野球部員写真
(後列左から) 尾添、飯島、千家、永見
(前列左から) 小田教諭、名村教諭、上田部長、山本(北村)、山中教諭
部 長 上田部長   監 督 北井善衛    主 将 永見栄二
投 手 飯島義行(3年)    捕 手 田村 博(2年)    一塁手 堀川 勝(2年)
二塁手 手銭 良(2年)    三塁手 永見栄二(3年)     遊撃手 北村章治(3年)
左翼手 尾添 勝(3年)    中堅手 千家和比古(3年)    右翼手 嘉藤律雄(2年)
    小中 勲(2年)        勝部浩司(1年)         嘉藤 進(1年)
    曽田健次(1年)        森山弘英(1年)         山崎幸三(1年)
 夏の大会
 第50回全国高等学校野球選手権島根大会は7月20日から大田市民球場で開催された。本大会は記念大会であり1県1校ということで甲子園出場のチャンスも大きいため、各校とも熱気をを胸に秘めて開会式に臨んだ。入場行進では前回の記念大会(第45回)の優勝校である大社が先頭を切って行進した。

 二回戦(7月25日)
大 社 010 300 100 = 5  (大 社)飯島、勝部、飯島ー田村
益 田 000 000 030 = 3  (益 田)横山ー斉記

 準々決勝(7月27日)
大 社 221 320 1 = 10  (大 社)飯島、勝部、飯島ー田村
出雲商 000 000 0 =  0  (出雲商)嘉本、三原ー高尾

 前日優勝候補の益田農林を破った三刀屋は攻守とも波に乗っていて、この日も大社の飯島、勝部投手を攻め、下位打線がみごたな集中打で快勝した。
 三刀屋は二回裏二死後、影山、勝部が連打し、片寄が左中間三塁打して先制の2点。四回には一死後、佐藤死球で出塁し影山が右中間を深々と破る三塁打で1点を追加して飯島をKO、代わった勝部が三塁けん制悪投でそれぞれ1点を加えた。大社は三刀屋岡田の下手からの投球に手を焼き3安打に押えられ、得意のバント戦法も出来なかった。初回トップ永見が四球で出塁した後、二盗三盗に成功、一死後三番手手銭が四球目をスクイズしようとしてうまくはずされ、併殺されたのが痛かった。

 準決勝(7月28日)
大 社 000 000 000 = 0  (大 社)飯島、勝部、飯島ー田村
三刀屋 020 201 10 × = 6  (三刀屋)岡田ー影山


 思い出すままに
元部長 上田 弘

 大社高校野球部史の続刊を発行するので部長在任中の想い出を書くように、との連絡を受けた。既刊の部史は私が昭和39年春出雲商業高校より母校に転勤した時には既に着々とその編纂が行われており、校内では当時の部長中和夫先生が中心となり校外の多くの野球部OBの方達とも連絡を取りながら発行への仕事が進められており、「野球部を手伝ってくれ」との要望で伝統ある野球部のお手伝いをすることになった。翌40年になると中先生は永らく部長をやったから交替するということで、「大社高校の野球部長は町内生まれで大社高校(旧制中学校も含めて)の卒業生がやるのが代々の伝統である」とのことで私にお鉢が廻って来た。野球が嫌いではなし、前任の出雲商高でも永らく野球部に関係して来て町内の野球関係者の方にも顔馴染みがあったりしたので部長という大任を引き受けることになった。それより44年春再び出雲商高に転出するまでの4年間、監督さんと心を一つにし選手と苦しみを共にしながら夏の甲子園、春の選抜へと頑張ったが残念ながらその夢は果たせなかった。その上に転出の年度末までに整理出来なかった部財政の赤字を後任の方に残してしまった事が大きな悔やみとして今でも想い出すことがある。大社高校在任5年間の野球部との関わりは私にとって色々な人生経験の一つであったことに感謝の気持ちである。以下想い出すままに少しばかりの項目に分けて記すことにする。
 ●部長ということーー野球部も校内の生徒の部活動であるので部の指導をしたりする教員は生徒会では顧問と称し、本来の部長は生徒である。然し特に野球部では担当の顧問教員は対外的には部長と言い、島根県高等学校野球連盟が県高等学校体育連盟とは別組織になっていたので特に野球部の場合どの学校でも部長で通っていたように思う。
 ●野球部後援会のことーー大社高校野球部後援会は昭和20年代の初めに頃に設立され毎年物心共に多大の後援をされて来た。当時の会長は町長であり卒業生でもある蒲生伝治氏であった。会則による役員会・世話人会は大体年度始めに開催され、募金についての趣意書を持って各地区の世話人の方を訪問し募金の依頼に廻るのが先ず第一の大事な仕事で、遠距離へは学校の車を出してもらったりして各地区への挨拶廻りにかなりの時間を要した。
 ●選手の練習と試合のことーー生徒は各学期の定期考査の時を除いては晴雨に拘わらず毎日が練習であった。日曜・祭日にはなるべく強い学校を選んで練習試合に出かけたり、ホームグランドでやったりだった。特にホームグランドの場合はOBに審判依頼にあちこち電話をかける折角の休みを奪うことになるので先輩方には大変な迷惑をかけたが、文句一つ言わずかけつけてくれる先輩は有難かった。夏の大会が近づくと恒例の合宿練習。校内の合宿所(旧大社高女の寄宿舎を移築したもので家庭科の教室も作ってあった)に約一週間泊まり込んでの練習は生徒にはかなりきつかったが、終わってみると何かが得られたような気もする、という生徒も多かった。校内だけでなく出雲大社の旧修練道場を借りて合宿を行った年もあった。このころには練習に参加し指導してくれるOBも多くなり、所謂マンツーマン指導実施の時期であった。夏の大会前には出雲大社に戦勝祈願に部員一同ユニホーム姿で参詣した。八足門を入った本殿前に整列しお祓いを受けて一同拝礼しお札をいただいてそれを身につけて試合に臨む。試合場のベンチには選手の父母が子刻詣りでいただいた来た稲佐浜の白砂があった。試合前各自グラブやバットn、又ベンチ総てに振りかけて勝利を祈る。他校からは神がかっている、との批判も度々いただいた。精神統一の一つのやり方として伝統的に引き継いで来たものであった。部長在任4年間に残念ながら甲子園への夢は実現出来なかった。しかし昭和42年秋に島根県より高校の選抜選手団が韓国遠征することになり、その選手団に投手として内田博千、捕手として新田秀幸の両名が選ばれ優秀な成績をあげてくれた事は快いことであった。
 ●監督さんと先輩のことーー野球を直接指導する監督さんは校内の教員に適当な人がいなかったこともあるが代々先輩の中から引き受けてもらっていた。人選はOB会(中山敏三氏)にお願いしていた。40年度高校11期広戸剣次氏、41年度12期北井宏弥氏、42年度6期川上裕氏、43年度旧制中学34期の今は亡き北井善衛氏。と毎年監督が交代するという状態であった。夫々に性格も異なり選手への接し方、練習のやり方、試合運びも違っていて特徴が感じられた。私は部長在任中幾多の先輩方と親しくしていただいた。その内の一人。これも今は亡き中学34期の川上滝郎氏。彼の家と私の家がかつて隣あっていて親戚同様の付き合いをしていたので幼い頃からお互いに名前で呼んでいた。彼はかつても監督もしていたが常に指導に当たってくれていた一人でもあり、彼の姿がグランドに見えると練習をしている選手の目付きも違ってくるような気もした。彼の姿を見るとつい「ターチャン」と幼さな言葉で呼びたくなったが、生徒の前だので「川上さん」と他所行き言葉に変えねばならなかった。彼の方も私に「部長さん」と呼びかけるので面映ゆい気がし、生徒の前でお互い苦笑しあった事が度々であった。
 輝かしい伝統を持つ大社高校野球部が一層の発展を見る事を祈って雑文を終わります。関係者ご一同様のご健勝ご多幸を祈ります。


昭和44年
昭和44年の野球部員写真
(後列左から) 手銭、田村、小中、堀川
(中列左から) 山ア、石原(森山)、嘉藤、曽田、園山
(前列左から) 桑本、松原、大輝、平代、 白銀
部 長 秦 明正   監 督 石田喜代志       主 将 田村 博
投 手 堀川 勝(3年)    捕 手 田村 博(3年)    一塁手 嘉藤 進(2年)
二塁手 手銭 良(3年)    三塁手 園山隆義(1年)    遊撃手 曽田健次2(年)
左翼手 小中 勲(3年)    中堅手 山ア幸三(2年)    右翼手 森山広英(2年)
    平代一夫(1年)  松原晶久(1年)   桑本庸司(1年)   吉村礼三(1年)
 夏の大会
 第51回全国高等学校野球選手権島根県東部地区予選大会は、7月20日から3日間、会場は松江市営球場。春の大会を最後に北井善衛監督が勇退し、新たに若い石田喜代志監督を迎え、夏の大会をめざして厳しい練習が続いた。選手は小柄ではあるが徹底した短打戦法で鍛えられ、投手陣は技巧派の堀川、速球派の山崎の2人であった。春からの戦績は、9勝8敗。
 大社高校の一回戦の相手は、昨夏準決勝で惜敗した三刀屋高校であった。

 一回戦(7月20日)
大 社 001 010 0 = 2  
三刀屋 124 413 × = 15  

 三刀屋は、球威のない大社4投手に19安打を浴びせ、毎回得点の15点をあげ一方的に勝った。
 三刀屋は初回、片寄が四球のあと盗塁、福場の適時打で1点を先取、2回以降も得点を重ね、一方的な勝ちをおさめた。


 北井監督の教え
第14期卒業生  松 田 武
 情熱の恩師、北井監督の口から出てくる言葉は、「お前たちを甲子園に連れていってやる!」私の心の内は、高い高い雲の上にあるような甲子園なのに、本当によく口にされる監督さんでした。
 昭和35年夏の大会、まだ県予選がはじまったばかりの夜のことです。松江の赤木旅館の風呂で北井さんと数名のチームメートと気持ちよく、一つの勝利を味わっていたとき、北井さんの口から突然、「お前達を甲子園に連れて行く!」と力強く言われた。私達選手は、あの夢にまで見た甲子園に出場できるなんて考えてもみなかったときのことなので、力強く自信に満ちたひとことで、頭のすみに甲子園というマンモス球場を植えつけていただいたように思われました。
 この年の夏は、一回戦、二回戦コールド勝ちでしたが、続く準決勝からは、やや苦しみながらも勝ち進み県優勝、続いて西中国大会も優勝しました。私達にあの風呂での話を実現させていただきました。
 北井監督は、言葉だけでなく、練習一つ一つの内容に真心が入っていました。我々にとっては、苦しいはずの個人ノックの中でも、一球一球に甲子園に行くのだ、これが取れれば甲子園でも通用する選手になれるのだ。本当に心をこめられたノックの雨であったことを思い出します。
 監督は練習を休まれたことは一日たりともありませんでした。
 ある日のこと、監督は、知人の結婚式があるとの連絡があり、私達は当然休まれるだろうと少々喜びを感じながら練習に入りました。いよいよ練習も終わりに近づいてきたとき、監督は式服の姿でグランドに直行されたのです。やや酒も入っていたようですが、グランドに入るなり個人ノックでした。この日は、縁起のいい日だというのでさらに厳しいノックの雨、それも一球一球に甲子園という言葉が出てくるのです。
 この機会に、思い出に残った練習内容も紹介させていただけば、冬季には、毎日のメニューが変わり、きょうは日御碕、明日は鵜鷺往復、又次の日は弥山登頂ランニング、来る日は奉納山往復30回と、今では考えられないトレーニングをやらされました。当然監督はバイクで伴走。これで終わるのではありません、くたくたになり学校に帰ると、キャッチボールから始まる普通の練習をするのです。これが北井流の軽い練習だったように思います。このようにからだ全身に、強い体力、粘り強い精神力をうえつけ、あの夢にまで見た甲子園を浸透させられたようにも思われました。
 私達、社高14期卒業生は幸せものです。野球に関しては厳しく妥協をゆるされなかった北井さんですが、野球を通し、人間を作りあげ、社会性を学ばさせていただき、又精神力をつけていただいたうえに、甲子園には2年連続出場させていただくことができ、すばらしい思い出を残させていただくことができました。
 私は、中学校の監督を23年間やっておりますが、27年前の北井さんのお教え通り、人間味あふれる厳しい指導、基本に忠実な野球に取り組んでいるつもりです。でも、まだまだ北井さんのような指導術には届きません。今後も続けて勝負師北井監督に学んだことを大切にし、北井野球を受け継いでいき、自分の野球人生の中に生かしていきたいと考えております。


昭和45年
昭和45年の野球部員写真
(後列左から) 安部教諭、秦部長、山崎、白銀
(前列左から) 黒田監督、石原(森山)、曽田、嘉藤
部 長 秦 明正   監 督 黒田邦宏       主 将 山ア幸三
投 手 山ア幸三(3年)    捕 手 桑本庸司(2年)    一塁手 白銀 博(3年)
二塁手 平代一夫(2年)    三塁手 園山 隆(2年)    遊撃手 曽田健次(3年)
左翼手 嘉藤 進(3年)    中堅手 森山弘英(3年)    右翼手 松原晶久(2年)
    大輝雄二(2年)        須谷敏雄(1年)        多久和明夫(1年)
    福間博明(1年)  春日 卓(1年)   尾添浩明(1年)   片寄幹夫(1年)
 夏の大会
 東部地区予選 一回戦(7月21日)
大 社 100 000 400 = 5  (大 社)山アー桑本
松江農 010 000 14 × = 6  (松江農)高木ー上野

大 社   打 安 点 失   松江農   打 安 点 失
E曽 田  5 0 1 0   D坂 本  5 2 1 0
H須 谷  2 0 0 0   G能 海  5 1 0 0
9福 間  0 0 0 1   B三 宅  4 2 2 0
D園 山  4 1 0 0   A上 野  4 1 0 0
@山 ア  4 3 0 0   @高 木  3 1 0 0
B白 銀  4 2 0 0   F 角   3 1 0 0
F嘉 藤  5 0 0 0   E梶 谷  3 2 1 0
C平 代  3 1 0 1   C丹 羽  3 0 0 1
A桑 本  4 0 0 0   H菅 井  2 0 0 0
G森 山  4 2 0 0           

       38 9 1 2         33 10 4 1

 1年生の大量入部で部員数も増えたが、春以来故障者が続出し練習試合の戦績も五分五分であった。夏に向け故障者も復帰し、投手力は今一つだが、打力のチームであった。
 一回戦の相手松江農は、練習試合で負けていたチームなので何としても勝とうと、一同意気込んで臨んだ。両チーム合わせて19安打の打撃戦となり、最後まで予断を許さない試合を展開した。
 大社は1回先取点、松江農は二回1点をあげ1対1のまま七回大社攻撃7番平代の中前打をきっかけに、三つの四球と4番山崎5番白銀の連続安打などで大量4点をあげ勝負は決まったかにみえた。しかし、松江農は、七回に1点を返したあと、八回に疲れの見えた大社山崎投手をとらえ6、7番の連続右前安打を足場に、長短4安打などで4点を入れ、最終回大社の必死の反撃もむなしく逆転負け。この試合テレビ中継されていて、大社が5対2で勝っているところでテレビ中継が終了し、その後逆転されてしまい大社では、勝ったと思っていたら逆転負けと聞いてがっかりしたファンも多かったとのこと。
 選抜出場の江津高が島根で初めて春夏連続出場した。
 江津工の三沢投手は、西部地区、県大会、西中国大会6試合を全部を完封し、甲子園での一回戦と二回戦の三回まで64イニング無失点であった。



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